転落の果てに

作:大木奈子

 彼の転落は、同じ部署の女子社員を好きになったことから始まった。好きになったが、告白して断わられた場合、同じ部署であるため気まずくなり仕事がやりにくくなる。そのため、彼はそれとなく彼女に視線を送ったり、意識して仕事を手伝ったりすることにとどめていた。
 だが、彼が彼女に気があることを同期入社の友達に見抜かれてしまった。
「お前の不自然な態度見てりゃ、誰だって気づくさ。気づかないのはあの女くらいのもんだぜ。」
 と言うから、無意識のうちに彼女を思う気持ちが表に現われていたのだろう。とにかく、気づいたからには全面的に応援する、という友達の強い後押しを受けて、ついに彼女にアタックするところまでこぎつけた。
 しかし、結果は最悪だった。
「何それ?寒っ!それよりあんた、あたしのことエロ目遣いでジロジロ見たり、わざとらしく寄って来たりしてるでしょ。それってセクハラなの知ってる?」
 好意を持って打ち明けた結果がこれである。まさに最悪としか言いようがない。だが、彼の転落は、これだけでは終わらなかった。

 彼女にフラれてから、彼は彼女と一線を置くようにした。ジロジロ見るのはセクハラになると言われたので、できるだけ彼女から目をそらすように気をつけた。また、今まで意識して彼女の仕事を手伝っていたが、『わざとらしく寄って来る』と思われると困るので、それもやめた。
 仕事仲間として、告白の失敗により変なわだかまりが残ることのないように最大限気をつけたつもりだった。だが、それが結果として裏目に出た。

 ある日、彼は上司の目の前で彼女に因縁をつけられた。
「ちょっと、あんた、私が女だからってバカにしてるの?他の人の仕事は手伝うくせに、私のは全然手伝わないじゃない。私の仕事なんて、たいしたことないと思ってるんでしょ?」
「そんなつもりじゃないよ。ただ、必要以上に近づくと、『わざとらしく寄って来る』と言われるから、頼まれたら手伝うつもりだったんだよ。」
 彼は彼女の言いがかりをうまくかわそうとするが、彼女の言い方は攻撃的だ。
「それは、私にフラれたあてつけ?それまでは当たり前のように手伝ってくれてたじゃない。」
「だから、あの時は君が好きだったから、近づきたくて手伝っただけだよ。でも今は好きとか嫌いとかいう関係じゃなくなったから、遠慮してたんだ。」
「『遠慮』なんて感じ悪い。他の女の仕事は手伝うくせに。好きとか嫌いとかで仕事を進める男って最低!そうやって女を色分けすることがセクハラなのよ。」
「違うって。セクハラしないために、気を遣ったんじゃないか。君だって、嫌いな男に近寄られたら嫌だろ。」
「もちろん、嫌よ。でも、女の子の仕事を手伝うのは男の義務でしょ。だったら嫌な仕事は嫌な男に押し付けるに決まってるじゃない。2人でできる楽しい仕事は好きな人と一緒にやるけど。」
「そっちこそ、男を好き嫌いで分けて、セクハラじゃないか。」
「はあ、何言ってるの?セクハラって男が女にするもんでしょ。モテないからってへ理屈言って。悔しかったら、女に好かれる男になれっつーの。」
 めちゃくちゃな論理だが、彼女の迫力に押されて、立会いの上司は口を挟めない。追い撃ちをかけるように、さらに彼女はまくし立てる。
「だいたいあんた、あたしから目をそらしたと思ったら、エロ目遣いで他の女の子を見たりしてるじゃない。おまけに仕事手伝うふりして、他の子にわざとらしく近づいたりして。そういうのをセクハラって言うのよ!」
「何も、そこまで言わなくても…。」
 彼は必死になって弁解しようとするが、感情的になった女性をうまくなだめることのできる良い反論が思いつかなかった。

「部長、この人あたしに対してセクハラしました。こんな人と一緒に仕事できません。今すぐこいつをクビにして下さい!」
 彼が黙っているのをいいことに、ついに彼女は切り札を切った。
「ちょっと、君達落ちつきなさい。」
 上司の部長がようやく彼女をなだめる。しかし、彼女の気持ちがおさまる気配はない。
「部長、知ってますか?就業規則に書いてありますよ。セクハラは懲戒解雇の対象になりうると。」
「そうだけど、それはごく悪質な場合であり、今回の場合は、それほどの問題では…。」
 騒ぎを大きくしないために、上司は必死で彼女を抑えようとする。しかし、この発言は逆効果だった。
「『それほどの問題では』ですって?その言葉で世の中のどれだけの女性が傷ついたことか。男の人にとっては、『それほどの問題では』ないのかもしれませんが、被害に遭った女性にとっては、仕事を一生続けられるかどうかがかかっているんですよ!」
「すまない。今のは取り消す。私が言いたかったのは、彼が職権を利用して圧力をかけたわけではなく、しかも今回が初めてであったのだから、大目に見てやってくれないか、と言うことだ。もちろん、彼は懲罰として、厳重注意するつもりだよ。」
 部長が和解案を出したが、彼女は断わった。彼女の目的は、彼を職場から追い出して仕事を奪い、人生をめちゃめちゃにすることである。
「部長、上司はセクハラを防ぐ義務があるんですよ。この男がこの職場に居続けることがセクハラなんですから、追い出さない限り、セクハラを防ぐ努力を怠ったとして訴えますよ。」
「わかった。では、彼の処遇は総務部と相談して決めるから、今日のところはこれで抑えてくれ。」
「わかりました。その代わり、明日からはこのむかつく男の顔を見ないですむようにして下さいよ。」
 彼女はそう言うと、憎しみをこめてハイヒールの踵で彼の足を踏みつけた。

「痛い!何するんだよ!」
 ヒールで踏まれた激痛に、彼は思わず彼女につかみかかった。だが、この行動が彼の運命を決めた。
「あ、触った!部長、見ましたよね。こいつ触りましたよね。痴漢よ、痴漢!」
 彼の手を振り払った彼女が、上司に詰め寄る。
「触ったのは見たけど、今のは足を踏んだからでは…。」
 さすがの部長も困った顔をする。
「足踏んだのは、偶然よ。電車の中とかでうっかり足を踏んじゃっても、わざとじゃなければ罪にならないじゃないですか。でも、こいつはわざと私に触ったんですよ。わざとやるのは痴漢じゃないですか。警察に突き出しましょう。今すぐ私、電話して来ます!」
 彼女はそう言うと、部長の制止を無視して駆け出した。

「大変な事になった。」
 部長は顔を青ざめた。ただの脅し文句かと思いきや、彼女は本当に警察を呼んでしまったのだ。普通だったら警察はこの程度のことではなかなか動かないものだが、彼女の親戚がこの地域の警察の上層部にいたため、出動の運びとなったのだ。
「とにかく、我が社から逮捕者が出ては、会社のイメージ失墜につながってしまい、大変まずい。何とかせねば。」
 部長は頭を抱える。
「逮捕者が出てしまったら大騒ぎになりますから、まず、こいつを警察から守りましょう。」
 そう言ってくれたのは、同期入社の彼の友達。彼の後押しを受けて告白したので、失敗した時は恨んだりもしたが、やはり持つべきものは友である。
「任意同行でも痴漢犯罪の場合、証拠がなくても被害者の女性の一言で有罪にされてしまいます。ですから今日は彼を家に帰した上で、彼女を説得して、警察にお引取りを願うように言ってもらうしかないかと思います。」
「わかった、そうしよう。長年の恨みからか、彼の顔を見ると彼女の心が不安定になるようなので、説得する時は彼がいない方がいい。今日のところは退社してもらおう。」
 友達と部長が気をきかせてくれたおかげで、彼は家に帰ることになった。入り口にはすでに警察が来ているので、裏手の通用門からの退社である。
「今日のところはうまく収めるから、明日はまたいつもどおり出社してくれ。」
 部長が申し訳なさそうに言う。
「気にするな。お前は悪くない。男女間のもつれにこのくらいはつきものだよ。明日も元気に仕事に来いよ!」
 友達が通用門まで見送ってくれた。
 だが、彼に明日はなく、これが最後の見納めになるとは、この時誰も予想していなかった。

 彼が通用門を出た頃、事態はさらに悪化していた。彼女が警察に、作り話を交えて彼の悪行を暴露していたのだ。対応したのが彼女の親戚だったため、証拠もないまま彼は婦女暴行の凶悪犯に仕立てられてしまった。
 戻ってきた部長や彼の友人が、警察に帰ってくれるように彼女に頼んだが、逆効果。婦女暴行の凶悪犯を野放しにすれば、次は誰が犠牲になるかわからないということで、警察は彼の逮捕状をとった。

 一方、自分の身に危険が及んでいると想像もしていなかった彼は、自宅へと向かっていた。幸いなことに彼は一人暮し。昼間突然家に帰ったとしても、家族に驚かれることはない。
 この角を曲がれば自宅が見える、というところで彼は足を止めた。自宅の前に制服姿の警察官が張りこんでいる姿が見えたのだ。彼女が手配させたのに間違いないだろう。
 それにしても、嫌いな男に告白されたからといって、仕返しにここまでするだろうか?自分が好かれていてちやほやされるのが当たり前と思っていて、相手が自分に対する好意をなくして普通に接するようになると、冷たくされたと勘違いして逆恨みするのだから、こればかりは彼が気をつけても防げるものではない。
 途方に暮れた彼は、しばらく物陰から様子をうかがっていたが、張りこみの警察官が立ち去る様子はない。このままでは家に帰ることができない、彼の頭の中にそんな不安がよぎった。

「こんなところで、こそこそしてどうしたの?」
 不意に背後から声をかけられ、彼は飛び上がらんばかりに驚いた。振り向くと、ギャル系女と地味な女の2人組がいた。声をかけたのはギャル系女の方だった。女性問題でひどい目に遭っている彼だが、男は哀しい生き物で、若い女の子に話しかけられるとつい気が緩んでしまう。
「実は…。」
 油断した彼は、事件のあらましを語りはじめた。自分が無実の罪である事や、家に帰れなくて困っていることも。

 ひととおり話が済むと、彼女達は自己紹介をしてくれた。ギャル系女の名は翔子で、地味な女の方は澄香であった。
「ねえ、翔子。この人、自分は無実の罪だなんて言ってるけど、さっきのお巡りさんが言ってた婦女暴行の凶悪犯じゃない?」
 澄香が翔子に小声で言う。
「あたし達まで襲われたらどうするのよ?翔子が気安く誰にでも話しかけるから、こんな凶悪犯に捕まることになるのよ。」
「何言ってるのよ、澄香。こんな時のために光線銃があるんでしょうが。」
 翔子も小声で答える。
「あ、そっか。」
「どうせ警察に突き出したところで、わずか数年の罪にしかならないんだから、あたし達が被害に遭った女の代わりに裁いたって罰が当たることはないって。」
「そうだね。」
 2人の勘違いにより、彼の運命は決まった。

「無実の罪で警察に追われているんでしょ?」
 翔子が彼に聞く。
「だったら、あたし達が警察の絶対に手の届かない所まで逃がしてあげるよ。」
「え?本当?」
 翔子の言葉の意味をそのままの意味にとらえた彼は、思わず身を乗り出す。
「本当よ。ねえ、澄香。」
「うん。」
 澄香はそう言うと、彼に縮小光線銃を向けて照射した。まぶしい光に包まれた彼は、意識を失い、100分の一のサイズに縮められてしまった。

 彼が意識を取り戻した時、あたりの光景が大きく変わっていた。目の前には黒光りする巨大な柱が四本そびえ立っている。その柱がさっきの女性2人のブーツであることに気づいたのは、彼が上を見たときだった。
「気づいたようね。」
 はるか上空から澄香が声をかける。
「性犯罪者は再犯率が高いから、ちょこっと刑務所に入っただけですぐに出てこられると、あたし達女性が迷惑なのよ。」
 翔子がしゃがみこむと、彼を見つめた。
「ねえ、今からでも遅くないから、謝ったら?そうしたらひどい目にはあわせないけど。」
「ちょっと待ってくれ。俺は本当に何もしていないんだ。告白してフラれたので彼女から手を引いたら、昔みたいに親切にしてくれないと言って、俺をハメようとしたんだ。」
「だって。聞いた、澄香?」
「こんな男の言うことなんて信じられないよ。たぶん、フラれた腹いせに、彼女に襲いかかったのね。とんでもない男ね。」
 澄香は、彼の言い分を信じようともしない。
「ほら、正直に言って謝った方が良いよ。でないと、澄香に踏み潰されちゃうよ。」
 翔子が指先で彼を軽く突っつく。翔子にとっては指先で軽く触ったつもりだったが、彼にとっては力いっぱい突き飛ばされたような衝撃だ。
「うわっ!」
 彼は勢い余ってしりもちをついた。だが、こんなことで無実の罪を認めるわけにはいかない。
「信じてくれ。本当に俺は何も危害を加えることはしていないんだ。セクハラも、痴漢も、彼女が勘違いしただけで…。」
「もう、強情なんだから。」
 翔子が呆れたように言い、立ちあがった。
「ここまでずうずうしい男には、情状酌量の余地はないね。」
 澄香が一歩彼に近づく。

「白状させるのは、あたしに任せて!」
 翔子が澄香と男の間に割り込む。
「いい?よく見てて。」
 翔子はそう言うと、いきなり男の目の前に勢い良くブーツを踏み下ろした。
  ズシーン!
 隕石でも落ちたかのような衝撃が男を襲う。翔子にとってあと1センチのところに踏み下ろしたブーツは、彼にとっては目の前わずか1メートルに巨大な高層ビルが降ってきたかのように感じられたはずである。
「これでもまだ、何もしていないと言うのなら、次は本当に踏み潰すよ。」
 翔子の脅しに、彼はついに屈した。
「わかった。俺が悪かった。今度から気をつける。彼女にも迷惑かけたことを謝る。だから、だから、命だけは助けてくれ!」
 彼は恐怖のあまり泣きながら、土下座して許しを願った。しかし、彼女達は容赦しなかった。
「あはは、おもしろーい!さっきまでシラを切っていたのに、ここまであっさり白状するなんて。このみっともない姿を、被害者の女に見せてあげたいな。」
 翔子が笑いころげる。
「白状するのが遅すぎよ。女性の敵は、謝ったって許さないわ!」
 澄香はそう言うと、小さな彼をブーツで踏み潰した。好きになった女にハメられて転落した男は、こびとにされたあげく、澄香のブーツの靴底でその生涯を閉じた。
 彼女が「セクハラ」だと因縁をつけなければ、痴漢行為を誘発しなければ、あるいは警察に虚偽の申告をして婦女暴行犯にでっち上げなければ、彼はこんな目に遭わずに済んだのに。

「これで安心ね。あたし達も、被害者の女の人も。」
 足に力をこめて踏みにじった後、澄香がブーツをどかした。
「毎度のことだけど、踏み潰されちゃうとあっけないもんねー。」
 残骸を見て、翔子が面白そうに言う。
「じゃあ、帰りましょう。」
 澄香は自分が踏み潰した残骸に目もくれずに歩き出した。
「澄香、待ってったら!」
 翔子もその残骸を踏みつけてから、澄香の後を追った。アスファルトの地面に残された彼の残骸は、自然と風化していくのを待つばかりである。

 次の日、彼は会社に姿を現さなかった。しかし、これだけ騒ぎを起こした後なので、事件性はなく、ただの家出だろうということで、彼の捜査は打ち切られてしまった。もちろん、彼を転落の果てに破滅に追いやった元彼女の責任が問われることもなかった。

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