ブーツへの想い(後編)

作:大木奈子

注:この作品は、『ブーツへの想い(前編)』の続きです。先に『ブーツへの想い(前編)』をお読みください。

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 突然男は背後から、黒革のロングブーツを履いた女性に近づくと、持っていた刃物でいきなり両足首を切りつけた。
「きゃあああああ!!」
 女性の叫び声と共に、ブーツはざっくり切り裂かれ、その切れ間から血が流れ出した。普通だったら即死に近い傷を足首に負わせられただろうが、ブーツが守ってくれたおかげで彼女の傷は致命傷には至らなかった。
 女性が倒れて動けなくなったのを見て、男はそのままコートの襟で顔を隠しながら走り去った。

 男は、巨大化した澄香によって、家も家族も全財産もすべて踏み潰されて失った。そして、仕事や人脈までも失った。彼には失うものは何もない。あるのはただ憎しみのみだ。
 しかし、憎しみをぶつけるはずの澄香の正体は、彼にはわからなかった。世間一般では巨大化した澄香のことは、「謎の巨大物体」として扱われている。「謎の巨大物体」に関してわかっている情報は、誰かが偶然撮影した巨大なブーツが街並みを踏み潰して歩いていく映像だけだった。彼はその映像を見て、全てを失った怒りをブーツに向けるようになった。
 事件の後、ブーツを履いた若い女の子が虫を踏み潰すのを彼は目撃した。その女の子の何気ない一言、『ブーツじゃなきゃ踏んだりしない。』この言葉が彼のブーツに対する憎しみを燃え上がらせた。謎の巨大物体もブーツを履いていなければ自分の家族を踏んだりはしなかったのではないかという想いが、ブーツを履いた女性へとやり場のない怒りを向けさせたのだった。
 ブーツが憎い。その想いが、彼を犯行に駆り立てた。彼は避難所から刃物を盗み出し、計画を実行に移した。ブーツを履いて歩いている女性の足首を刃物で切りつける。憎きブーツを傷つけられ、なおかつブーツを履くと犯罪に遭うから、女性たちがブーツを履くのをやめるようになる。彼の立てた計画は完璧なはずだった。

 だが、一向に街を行く女性たちのブーツは減らない。もうすでにこれで10人。事件のことは大々的に報道されている。ブーツを履いていると襲われる可能性があるというのに、怖くないのか? 彼は不思議で仕方がなかった。
 防寒、冷え性対策に加え、おしゃれと男性の目を惹きつける、さらには汚れものから脚を守ってくれる、1足でこれほど便利なブーツを女性たちがそう簡単に手放すわけはないと言うことに、彼は気づかなかったのだ。
 街中でブーツを見かけるたびに、彼の脳裏に巨大ブーツに踏み潰されて行く街並みと恐怖と苦痛にゆがんだ顔で死んでいた妻や子どもたちの姿が重なった。そして、いつしかブーツは彼の心理的外傷となっていた。

 そして彼はその夜も、運命の小道で物陰に隠れて道ゆく人を眺めていた。
「ちくしょう!」
 彼は通り過ぎてゆく二人組のブーツの女性を見てつぶやいた。履いている女性にとってはただの靴だが、特別な想いを寄せている彼にとってブーツ姿を見せられるのは、拷問に近い苦しさだった。
「どいつも、こいつも、俺の気も知らないで。」
 男は刃物をコートの下に忍ばせて、二人の女性のブーツを眺めていた。今すぐにでも襲いかかりたいような衝動にかられたが、相手が二人だと逆に反撃されるおそれがある。ブーツを履くと襲われるという恐怖を確実に与えるには、相手が一人のときのほうが良い。
「ブーツを履くのをやめさせてやる。ブーツを履くとどうなるか思い知らせてやる。」
 二人の女性への襲撃を断念した彼は、物陰でぶつぶつとつぶやいた。
「次にここを通る女こそ、恐怖で二度とブーツを履けないようにしてやる。」
 彼は刃物の柄を強くにぎりしめた。
 間もなくブーツの固い靴音が彼の耳に聞こえてきた。

 カッ、カッ、カッ・・・・・。
「あーあ。すっかり遅くなっちゃったなあ。」
 暗い夜道を一人、風祭澄香がブーツを鳴らしながら歩いていく。
「翔子ったら、バイトだからって先に帰っちゃうし。」
 人通りのない道である。澄香は寂しさを紛らわすため、ついつい独り言がでてしまう。澄香もまた、運命の小道を歩いていた。

 ガサッ!
 小道の横の茂みで物音がすると、突然一人の男が澄香の目の前に飛び出した。目深に帽子をかぶり、コートの襟を立てた見るからに怪しげな男だ。
「きゃっ!」
 澄香はとっさに護身用の光線銃を握りしめた。
「ブーツを履くな!ブーツのせいで俺は…。」
 男は手に刃物を持っている。その目は狂気の色を帯びている。
「二度とブーツを履けないようにしてやる!」
 男は刃物を持って澄香に襲いかかる。狙いは澄香の足。ブーツだ。
「覚悟!」
 刃先がブーツをとらえる直前、男はまぶしい光に包まれた。澄香が縮小光線銃を発動させたのだ。

「は〜、怖かった。」
 澄香がほっと胸をなでおろす。いまだに心臓はドキドキが止まらない。
「人間の大きさを変えるこの光線銃を持っていなかったら、あたしも危なく被害者になるところだった。」
 独り言を言っているうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。
「まったくもう、犯人は絶対に許さないんだから!」
 澄香は、100分の一に縮めた男を見下ろした。

 まぶしさから解放された男の目には、巨大な2本の黒光りのする柱が映った。それが巨大なブーツだとわかるのにそう時間はかからなかった。
「!」
 彼はショックをうけた。この景色こそ、ビデオに映っていた街並みを踏み潰して歩く巨大なブーツそのものではないか。彼は、自分からすべてを奪った「謎の巨大物体」の正体が巨大な女性であることを確信した。そして人間の大きさを自由に変えられるこの女性こそが、その巨大女性の正体であることも。

 男にとっての巨大女性である澄香がしゃがみこむ。
「あんたでしょ。いままで10人の女性を切りつけたのは。」
「そうだ。俺がやった!」
 彼は大声で答えた。自分の罪を認める代わりに、彼女にも罪を認めて謝罪して欲しい。そうすれば、彼のブーツに対する心理的外傷も癒されるのではないかと思ったからだ。
「俺が切りつけたのには、わけがある。」
 しかし澄香は、襲われかけた恐怖心から冷静さを失っていた。そのため、自分に危害を加えようとした切り裂き魔の言うことなど聞く気はなかった。
「許せない!」
 澄香が右足をこびとの頭上にかざす。
「言い訳なんて聞きたくもないわ。どうせ、か弱い女をいたぶって遊ぶ悪質な犯人の言うことでしょ。女に手を出すような男の言い訳なんて聞きたくもないわ。」
「ちょっと待て!話を聞け!この前の街を破壊した『謎の巨大物体』の正体は、お前だろ?」
「え!?知っていたの?」
 予想外の言葉に、澄香はこびとの頭上にかざしていた足を元に戻した。
「やはり、お前か。今、俺を小さくしたので気がついたよ。人間を小さくできるのなら、逆に大きくすることも可能じゃないかってな!」
「そう。じゃあ、あなたしかこのことは知らないわけね。なら、あなたを踏み潰しちゃえば、『謎の巨大物体』の正体を知る人はいなくなるわね。」
 澄香は冷たく言い放つ。
「おい、そう来るか?お前は自分が巨大化した時にどれだけの被害を出したかわかっているのか?被害者の心理を考えた事あるのか?」
「いやな事思い出させないでよ。腹立つなあ。別にちっちゃな人間の1人や2人、踏んだって何とも思わないわよ。それより、あんたのほうこそ女性を切りつけるという陰険なことしているでしょ。そっちの方が悪質じゃない。」
「違う!俺は人を殺してはいない。これは復讐なんだ。お前の履いていたブーツにに踏み潰されたすべてのものに対する…。」
「いい加減にしなさい!」
 澄香が男を一喝する。
「女性を傷つける男は、どんな理由があっても死刑よ。だから、小さくされて踏み潰されても文句はないでしょ。」
「死刑は覚悟している。だが、殺す前に話だけは聞いてくれ。それと、ブーツで踏み潰すのはやめてくれ。絞首刑でも射殺でもかまわない。でも、ブーツで踏み潰されるのだけは勘弁してくれ。」
「いやよ。あんた、自分がやった罪の重さわかっているの?それを考えたら、そんなぜいたく言えないと思うな。」
「罪の重さは、そっちの方が重いだろ!」
 男はとっさに叫んだ。とにかく自分が何故こんなことをしたのか理解してもらうまでは、死ぬわけにはいかない。
「ふーん。全然反省してないね。あたしの場合は、自分の意思で巨大化したわけじゃないのよ。それに巨大化した時に踏み潰したのも、逃げない相手が悪いのよ。でも、あなたは計画的に女性ばかり狙って傷つけたんでしょ。傷ついた女性の気持ちを考えると、こっちの方が罪は重いわけだから、言い訳なんかできないはずよ。踏み潰されるのがいやだ、なんてわがままもね。」

 あまりに冷たい澄香の態度に、彼は絶望的になった。もう、これ以上何を言っても無駄である。こんな女に家族全員が踏み殺されたのだ。彼は悔しくて涙が出てきた。全てを失った被害者の苦しみは、加害者にはにはわからないのだ。
「ようやくおとなしくなったね。」
 澄香はブーツを無抵抗なこびとの頭上に持ち上げる。彼の頭上に黒い影が覆い被さり、死への恐怖が彼に迫る。一瞬でもこれだけ怖いのだ。圧迫死の恐怖に何時間もおびえながら死んでいった彼の妻は、どれほどの恐怖を感じたのだろうか?
 ブーツが憎い!だが、彼にはどうすることもできなかった。せめてブーツに対する心理的外傷を治してから死にたかったが、それさえもかなわぬ夢となった。
 巨大な黒いブーツの固くて冷たい靴底が、落下してくる。
  ぺちっ!
 一瞬で彼の体は押し潰され、内容物をまき散らして四散した。

「絶対に許さないからね。」
 澄香は、刃物で切りつけられたそうになったうっぷんを晴らすかのように、潰れた男の残骸を何度も踏みにじった。男の残骸は固いブーツの靴底によって地面に磨りつけられた。彼の残骸の一部はブーツの靴底の汚れと化し、残りは地面に残るかすかなシミとなった。
「これで安心ね。女の子に手を出した陰険男にふさわしい罰よ。」
 男にどんな事情があったのか知らない澄香は吐き捨てるように言うと、靴底に男のシミをつけたまま歩き去った。澄香が歩き去った後の地面には、かすかな血の跡だけが残された。

 全てを失った彼は、ついに命までも失った。救いの手が差し伸べられれば、彼はブーツに対して必要以上の憎しみを持つこともなく、こんな目に遭わずに済んだはずなのに。厳しい自由競争に破れた哀れな男の、あまりにも寂しい最期であった。

 数日後。
「なんか、連続女性切りつけ事件、起きなくなっちゃったね。」
翔子が退屈そうに言う。
「そうだね。」
澄香が興味なさそうに答える。
 切りつけ犯人を踏み潰したことを話せば翔子は絶対に、「自分もその場にいたかった。」と騒ぐに違いない。そのため、このことは澄香の心の中にしまっておくことにした。
「なにごとも事件が起きないのが一番よ。」
「あーあ、迷宮入りする前にあたし達で犯人を捕まえたかったのになあ。」
翔子が残念そうに言う。
 しかし、その犯人はもう、この世にはいない。真実を知るのは澄香だけである。

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