ブーツへの想い(前編)

作:大木奈子

『連続女性切りつけ事件 10人目の被害者!』
 新聞の見出しに物騒な文字が並ぶ。通行中の女性がいきなり刃物を持った男に足首を切られる、という事件が昨夜も起きた。テレビのニュースも、連日のようにこの話題をトップニュースに持ってきている。幸いなことに死者はまだ出ていないが、犯人も捕まっていない。
「うちの大学の近くでも事件起きているから、気をつけないと。」
 平成女子大学の図書館の入り口に並んでいる雑誌コーナーの新聞を横目で見ながら、風祭澄香はつぶやいた。

「あれ?澄香、どうしたの?こんなところで。」
 静かな図書館の雰囲気に似合わぬ陽気な声をあげたのは、澄香の親友、前島翔子だ。
「レポート作成のための資料集めよ。それより、翔子こそどうしたの?あんたが図書館にいるなんて。」
「ただコピーに来ただけだよ。他のコピー機混んでるけど、ここのは空いているじゃん。何かの本をコピーするふりして、過去レポ写せば。」
「あー、ひどいなあ、翔子。」
「大丈夫。澄香の分もコピーさせてあげるから。」
「あ、ありがとう。」
 二人は図書館の奥のコピーコーナーへ向かった。

「それより、澄香。良かったじゃん。」
 翔子が急に小声になる。
「え、何が?」
 つられて澄香も声の調子を落とす。
「連続女性切りつけ事件よ。あの事件が起きたおかげで、あんたが巨大化して街を破壊したことがニュースで取り上げられなくなったじゃない。迷宮入りした謎の巨大娘事件より、犯人を示す証拠の多い切りつけ事件の方がニュースとして扱いやすいんだろうけど。」
「確かにね。正直言って、ニュースやワイドショーで取り上げられなくなってほっとしている。絶対バレないとわかっていても、やっぱりテレビとかで映されるとドキドキするもの。」
「甘いな、澄香。そんなんでドキドキしていちゃ。」
「あたしは、翔子とは育ちが違うの。」
 高校時代に警察のやっかいになったことのある翔子と一緒にされてはたまらない。
「まあ冗談はさておき、連続女性切りつけ事件もけっこうしゃれになっていないらしいよ。うちの学校でも襲われそうになった人いたって。表沙汰にはなっていないけど。」
「そうなの?やだ、怖いなあ。」
「だから、私達でその犯人を捕まえて、小さくしてやっつけるのよ。悪い奴を退治するんだから、文句ないでしょ。」
「ええ!?だめよ。巨大化騒動の後、約束したでしょ。無茶な使い方しないって。もう少しほとぼりが冷めるまで待った方がいいよ。」
「その間にまた、犠牲者が出るかもしれないのよ。それでもいいの?」
「だって、警察が動いているんでしょ。下手に素人が動くより、警察に任せた方がいいよ。」
 澄香は翔子を説得する。あれだけの騒動を起こした後だけに、さすがにしばらくは人間の大きさを変える光線銃を使う気になれなかった。
「まあ、警察が動いているのに、あたし達がそう簡単に犯人見つけられるわけないか。」
 翔子は意外なほどあっさりあきらめた。さすがに翔子も巨大化騒動には懲りたのだろう。
「でも、澄香。気をつけたほうがいいよ。知ってる?襲われた女ってみんなブーツ履いていたって。」
「知ってる。今朝もニュースでやっていた。ブーツ履いていたおかげで、足首を切られても致命傷にならずにすんだって。」
「でもさあ、この事件明らかにブーツを履いている人が狙われているみたいよ。しかも、黒い本革のロングブーツだけが被害に遭っているんだって。これも裏情報なんだけど、他の靴を履いていた人は、事件の前後に犯人らしき人に出会っても何もされなかったんだって。」
「本当なの?」
「ええ。犯人の近くを通った何人かのうちの、明らかに黒の本革ロングブーツが狙われたって。澄香はいつもそのタイプを履いているから、マジで気を付けなよ。」
「うん。」
 澄香はうなずいた。どこに情報網があるのか知らないが、翔子の情報はけっこう真実をついている事が多いのだ。


「ちくしょう!」
 その男は気が狂っていた。
「どいつも、こいつも、俺の気も知らないで。」
男は刃物をコートの下に忍ばせて、物陰から道ゆく人を眺めていた。
 彼は少し前までは幸せな生活を送っていた。安定した会社でそれなりに出世し、収入も保証されていた。家族も妻と子ども2人。念願のマイホームも有り金をはたいて購入したばかりだ。そう、あの日までは…。
 その日、彼はいつものように残業をしていた。上役と会議をしていたため、事件が起きたのはリアルタイムでは知らない。夕食のため会議が一旦休憩になったため、自分の席に戻ってくると、同僚達が大騒ぎをしていた。
「どうしたんだ?」
尋ねる彼に、同僚の一人が青い顔をして言う。
「謎の巨大物体が落ちたらしい。お前の家の近くだ。」
「ええ!?」
彼は驚いて休憩室のテレビの前にかじりついた。
 テレビではニュースの特番が組まれていて、破壊された街の映像が映し出されている。夜の闇に包まれているので破壊の程度は、はっきりとはわからない。ただ、甚大な被害が出ているのは間違いない。
『現在のところ、死者は53名、重傷者37名。安否がわからない人がまだ数多く残っているようですので、今後、死者・行方不明者がさらに増えるおそれもあります。』
 淡々とアナウンサーがニュースを読み進める。すぐに映像が切り替わり、今度は夕闇に染まる町並みが映された。
『これが、目撃した人がビデオで取った映像です。』
 突如、巨大な黒革のロングブーツらしきものが目の前に出現すると、逃げ惑う人々や車、さらに家々までも踏み潰して去って行く。薄暗いのではっきりとはわからないが、謎の巨大物体はとてつもなく大きな女性のようだ。
「あ!」
 ビデオに映った映像を見て、彼は大声を上げた。その街こそが彼の住む街。彼の家から駅に向かう道である。
 彼はすぐに電話器に飛びついた。
「もしもし!もしもし!」
 自宅に電話をかける。だが何度かけても、『ただいま電話が大変かかりにくくなっております。しばらくしてからおかけ直しください。』という抑揚のない声が流れるだけだった。
「くそっ!」
 彼は電話機をにらみつける。電話回線がパンクしてつながらない。
「すまん。俺、今日は帰らせてもらう。家族の安否が気がかりだ。」
 突如彼は帰る用意をはじめた。

 そこへ、ちょうど上役がやって来た。
「さて、そろそろ会議を始めるから、会議室に来たまえ。」
 彼の気持ちなど知らない上役は、相変わらず渋い顔をしたまま言う。
「すいません。今日は帰らせてもらいます。家の近くに謎の巨大物体が落ちたのです。家族と連絡が取れません。心配なので、今日は帰ります。」
「馬鹿者!!君は会社の命運を握る大事な会議と、家族のどっちが大切なんだ?まだ、家族が死んだわけではないだろ!」
 上役の迫力ある説教が始まった。むろん、この時点で彼が早く帰宅する事は不可能になった。

「はあ、はあっ。すっかり遅くなっちまった。」
 彼は家路を急いでいた。時刻はすでに11時になろうとしている。
 鉄道は動いていたが、最寄駅を降りるといきなり立ち入り禁止の規制が敷かれている。駅前広場が跡形もなく破壊されたため、彼のいつも降りる側の出口は封鎖されていた。仕方なく反対側に降り立つ。そこからは迂回して自宅へと走った。
 災害時、一番役に立つのは自分の足である。大通りはことごとく通行止の交通規制が敷かれている。しかし、彼は小道を走り抜け、交通規制の検問を突破した。
 我が家のすぐそばまで来ると、突然視界が開けた。視界が開けたというより、夜なので建物の影が見えなくなり遠くの夜空が目に入った、というほうが正解かもしれない。この付近は住宅が密集していて遠くが見えないはずだが、目の前にはいきなり何もない荒野が広がっている。
「うわ!」
 目の前に広がる異様な光景に気を取られながら、一歩を踏み出した途端、彼は1メートルほどの段差を転げ落ちた。
「!」
 彼はここに至ってなぜ建物がなくなったのかがわかった。その領域こそが巨大な謎の物体の足跡だったのだ。

 すべてのものが押し潰されていた。家も木も車も人も。ものすごい重量だったのだろう。固いものは地面にめりこみ、柔らかいものは紙のようにぺったんこになっていた。
 かすかな星明りを頼りに進む。足元は、謎の巨大な女性の靴底の凸凹がそのまま地形になっている。凸部で踏まれた場所は完全に平らに潰されているが、凹部で踏まれた場所は地面が盛り上がり、家屋の残骸などが数十センチの高さまで残っている。彼は凹部を避けるように慎重に歩みを進めた。
 やがて、彼の家があった場所にたどり着いた。彼の家はきれいに靴底の凸凹模様をつけて潰れていた。家だけでなく、車もブロック塀も。もちろん、中にいた家族の安否は全くわからない。
「おーい!」
 彼は大声で叫んだ。だが、返事があるわけない。ただ夜の静寂が支配するのみ。
 無我夢中で潰れた家の残骸を取り除こうとする。だが、素手ではすぐに手の皮が破れ、血が流れ出た。一人で、しかも真っ暗闇の中では何一つ作業は進まない。
「ちくしょう!警察はどうした!消防はどうした!自衛隊は…。人助けが仕事だろう。」
 彼の言葉の最後は涙声に変わっていた。
 いつしか彼は泣き出した。家族の一大事に、会社で会議をやっていた自分を責めた。だが、責めたところで家族の行方がわかるはずなかった。

 泣きじゃくる彼に、突然光が当てられた。
「そこで何をしている?」
 巡回に来た警官達だった。
「お巡りさん、俺の家族を知りませんか?この家なんです。もしかしたら、下敷きに。助けてあげてください。」
 彼は警官に泣きつく。だが、警官たちは首を横に振る。
「人命救助は消防の仕事だ。それに、暗闇で作業をすると二次災害の危険がある。すぐにこの場を離れて、避難所に行きなさい。」
 彼は警官に半ば連行されるような形で避難所へと連れられた。

 避難所での眠れぬ一夜が明けた。夜明けと共に救助作業が再開された。
「ちょっと、ご主人、どこに行っていらしたのです。」
 近所の親しい婦人が目を真っ赤にして彼の元へやってきた。
「わ、私の家族を知らないか?」
 彼は婦人に飛びついた。
「それがですねえ…。」
 彼女は泣きながら話し出した。

 彼の家は謎の巨大物体の直撃を受けた。この時点で彼の子ども二人は家ごと踏み潰されて即死した。しかし、彼の妻は違った。庭に出ていた妻は運良く巨大なロングブーツの凹部で踏まれたため、倒壊した家屋の隙間に挟まりはしたが、一命だけはとりとめた。
 挟まって苦しみもがいている妻を、ちょうどその婦人が発見したのだ。彼女はすぐに救助隊に救助を求めた。だが、救助隊が近づこうとするたび、
「うちの家族を助けてください!」
 という声が周囲からあがり、そのたびに救助隊はそちらへと向かう。近所の親しい婦人と、実の家族では救助をお願いする真剣さが異なる。救助隊は鬼気迫る家族の嘆願を無視するわけにはいかず、そちらを優先したため、彼の妻の救助は後回しになった。
 そしてそのまま夜もふけ、二次災害のおそれがある、と捜査は打ち切られたのだった。彼が自宅の跡地にたどり着く少し前のことだった。

「あの時ご主人が早く帰られて、奥様を救うように救助隊に言ってくれたら…。」
 婦人は泣き崩れた。
 昼前に彼の妻は遺体で見つかった。挟まった隙間から必死で抜け出そうとしたらしく、手はぼろぼろになり、体は切り傷だらけ。顔は恐怖と苦痛にゆがんでいた。
「俺のせいだ!俺が早く会社から帰らなかったために…。」
 彼は泣き崩れ、再び自分を責めた。
 その日はもちろん会社を欠勤し、避難所で子ども達の救出を待った。絶望的とわかっていても、遺体が見つかっていない以上、外泊してして災難を逃れたのでは、という期待を捨てることができない。だが、完全に地中深く埋められた二人の子どもの救出は難航し、その日は見つからなかった。

 さらに次の日、彼はようやく会社に休暇取得願いの電話を入れた。だが、上役の返事は冷たいものだった。
「馬鹿者!!この忙しいのに休暇だと?ふざけるな!会社の命運がかかっているのに、どう言うつもりだ!」
「ですから、何度も申しておりますように、家内が殺されて、子ども二人が行方不明なんですよ。せめて葬式をあげるまで…。」
 だが、上役は彼の言い分を聞こうともしない。
「ええい、黙れ!君は大きな組織に入ってしまえば安心だと勘違いしていないか?これが、個人商店の責任者だったとしてみろ。勝手に店を休みにしたら、倒産だぞ!」
『責任者なら、自分の都合で好きなだけ店を休めます。』と言い返そうとしたが、やめておいた。
「もういい!君みたいなわがままな奴は、うちの会社にはいらん!君は昨日無断欠勤した。そのためにどれだけお客様に迷惑をかけ、会社の信用を傷つけたと思っているのだ?これは立派な懲戒免職ものだよ。」
 ガチャッ!
電話が切られた。
 彼は、家族と共に職まで失ってしまった。

 さらに、悪いことが彼に追い討ちをかける。彼の子ども二人は3日後、変わり果てた姿で発見された。これで、彼の心の支えは完全に断たれた。
 彼の家は地震保険と火災保険に入っていた。しかし、謎の巨大女性に踏まれたのは地震でも火事でもない。従って、家を失ったにもかかわらず、保険金は1円たりとも受け取れなかった。保険とはそんなものである。
 わずかばかりの貯蓄もあったが、通帳もハンコも身分証明書も失ったので、引き出すこともできない。たとえ自分の身分を証明しておろすことが出来ても、住宅ローンの返済額の方がはるかに多い。家の跡地の土地を売りさばいても、ローンの返済額には届かない。職を失い、家族の葬式をあげなければならないことを考えると、それこそ明日からの食うものに困る生活だ。
 最後の頼みの綱は、行政の援助である。しかし彼の住む自治体は、財政再建のために弱者保護を打ち切ったばかりである。全ては自己責任。働きが悪くて給料が少ない、または職に就けないのは、本人の責任。それで貧しい暮らしをするのも、本人の責任。一生懸命働いた人の税金を、自分の責任で貧しい生活をしている人に振り分ける悪平等は廃止されたのだ。
 チャンスだけは誰にも平等に開放されている。また、一から出直してベンチャービジネスなどで成功すれば、今以上に幸せな生活を送る事ができる。
 しかし、彼は精神的に弱かった。幸せな暮らしも、家族も、家も、お金も、仕事も、人間関係もすべて一度に失ったのだ。これだけのものをたった一人で再構築するのがどれほど大変なことか。悲観的に物事をとらえてしまった彼は、せっかくの再出発のチャンスを無駄にしてしまった。
 彼に残されたのは、借金のみとなった。

 途方に暮れ、道端に座りこんでいる彼の目の前を、ブーツを履いた若い女の子が数人通り過ぎていく。
 一匹の虫が飛んできて、一人の女の子のブーツに当たる。そして、虫は彼女達のブーツの周りを飛び回った。
「ちょっと、やだ、何この虫。」
「気持ち悪い。来ないでよ。」
 女の子達は、口々に言いながら、飛び回る虫から離れようとした。だが、その虫はまるで彼女達のブーツのとりこになったかのように、彼女達の足元について回る。
「ねえ、うざいから、踏んじゃいなよ?」
いくら逃げても追ってくる虫に、女の子の一人が言った。
「そっか。その手があった。」
 女の子達は立ち止まって、足下の虫を見下ろす。虫の一番近くにいた女の子が足を上げて、飛び回る虫を勢い良く踏み潰した。
 グシャ!という音とともに、ブーツの底から虫の体液が飛び散った。体液は彼女のもう一方の足にかかったが、彼女の足を汚すことはできず、ブーツの表面を汚しただけだった。
「もう、なんだったのよ。汚いなあ。」
 ブーツを汚された彼女はいらいらしながら、何度も虫を踏みにじった。
「でも、ブーツで良かったじゃん。」
 周囲の女の子の一人が言う。
「でないと、足に毒の入った体液がかかったかもよ。」
「でなければ、今頃虫に刺されていたかも。」
「言えてる。ブーツじゃなきゃこんなの踏んだりしないよ。」
 女の子達は口々に虫の悪口を言いながら歩き去って行く。虫を踏んだ子のブーツの底の凸凹の隙間に、虫の羽やら肉片やらが詰まっている。その虫の最後の抵抗として撒き散らした体液も、女の子の足を汚すことさえできなかったのだ。

 一部始終を見ていた男の目には、虫を踏み潰したブーツと、家や家族を踏み潰したブーツが重なった。『ブーツじゃなきゃこんなの踏んだりしない。』この言葉が、彼の頭の中で何回も繰り返された。
 もし、謎の巨大物体がブーツを履いた女性だったら…。そして、彼女がブーツを履いていなかったら…。『ブーツじゃなきゃこんなの踏んだりしない。』家や家族も踏まれずにすんだのではないか?
 男の中で急にブーツに対する憎しみの炎が燃え上がった。ブーツさえなければ俺はこんな目に遭わずにすんだのに。彼のやり場のない憎しみは、ブーツへと向けられた。いざ、憎しみを持って見ると、街中を歩いている女性のブーツ姿が多いこと。
 『彼女達がブーツを履いているため、踏まれなくてもいいものまで踏み潰されている。これ以上踏み潰される犠牲者を出さないためにも、ブーツを履く女性を一人でも減らさなくては。』
 彼は、そう心に誓い、実行に移すことにた。

 その夜、彼は避難所から姿を消した。一本の刃物とともに…。(つづく)

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