私は、その朝もいつものように会社に向かっていた。会社まで片道1時間50分の道のり。20年以上も毎日欠かさず、同じ満員電車に揺られて通っている。 その日もいつもの電車だった。いつもと同じ時間に同じ車両の同じ場所に乗れば、大体周りにいるのは知った顔である。ただし、声をかけたことは一度もない。 その中に一人の見知らぬ若い女性がいた。大学生だろうか?一見どこかのお嬢様という感じだ。満員電車はつらいが、こうして人間模様を観察しているとあっという間に時間は過ぎて行く。 一駅ごとに電車が混んできて、彼女は徐々に私のほうに体を寄せてくる。ヒールの高い靴を履いている彼女は、並ぶと私よりも背が高い。後向きの彼女の長い髪の毛が私の顔にかかる。いい臭いだ。身なりに気を使わなくなったうちのかみさんとはえらい違いだ。 そんなことを考えていると、彼女が小声で何かつぶやく。 「え?」 なんだろう。良く聞き取れなかったが、私に対してあまり良い感情は持っていないようだ。 「やめてください!」 今度は小声だけど、はっきりと聞こえた。『やめてください』とは、なんのことだろう?私は何もしていないはずだ。 ふと、何気なく下を見ると、彼女のお尻をしつこくなで回す男の手。何度も言うようだが、絶対に私ではない。犯人は…。私のとなりに立っていた、見るからに遊んでそうな若い茶パツロンゲのピアス男だ。学生かフリーターだろう。おしゃれに気をつかっていて、なかなかモテそうではある。 別に私は若者のファッションに文句を言うつもりはない。しかし、悪い事をしているのは許せない。 「君、」 私がその男に注意をしようとした瞬間、大きな駅に着いてドアが開いた。と、同時に私の手首が何者かにつかまれた。 「ちょっと来てください。」 それは先程のお嬢様系の女子大生だった。彼女は私をつかんだまま、ぐいぐいと出口に向かう。 ちょっと待ってくれ。もしかして、彼女は痴漢取締りの女性警察官?だとすると、まずいことだ。いや、私は何もしていないからまずくはない。しかし、長々と事情徴収でもされたら、会社に遅刻してしまう。それに、真犯人のあの男を逃したら、誤解を解くために事実を説明することさえ大変になる。 「違う!私じゃない!」 私は叫んだ。先程の痴漢男をにらみつけたが、奴は冷ややかな顔をして笑っている。 「私じゃないんだ。」 私は大声を上げた。だが、これは逆効果だった。何事かに周りの人間は気づいたようだが、みんな朝の忙しい時間に関わり合いになりたくないと思ったようで、すんなりと道を開ける。私はいとも簡単に彼女に引っ張られホームに降ろされてしまった。 「違うんだ、信じてくれ。」 私は必死で弁解する。 「私じゃなんだ。真犯人は…。」 ここで彼女が急に振り返る。なかなかの美人だが、私はじっくり彼女の顔を見ている暇はなかった。なぜなら彼女の、私をつかんでいるのと反対の手に何やら銃のようなものが握られていたからだ。 「!」 私は凍りついた。なぜ?周りにはこんなに人がいるのに発砲事件が起きたら、彼女だって警察行きだ。それとも、ただの威嚇か? 「放せ!」 私は反射的に彼女の手を振りほどいた。その瞬間、彼女の手にある銃が音もなく光ったような気がした。 そして、私は気を失った。 次に気づいた時、私はだだっ広いコンクリートの平原にいた。数十メートルほど先には巨大な2本の黒光りする塔が見える。 「どう?痴漢のオジさん。少しは反省した?」 天から女の声が響いてきた。まさか、女神?そんなはずはない。私は上を見上げた。すると、私を見下ろすような感じで先程の彼女の大きな顔が私を見下ろしている。いや、大きいのは顔だけではなかった。全身がとてつもなく大きいのだ。推定でも身長は軽く100mは超えている感じだ。私の前方に見える巨大な2本の塔も、彼女のロングブーツだった。 「な、何が起きたんだ?何でそんなに大きいんだ?」 私は混乱していた。こんなことがあるはずはない。それに私は今どこにいるのだろうか?これだけの巨大女が現れれば、大騒ぎになるはずなのだが、誰の声も聞こえない。 「うふふ。びっくりした、痴漢さん。あなたのことを小さくしてあげたの。」 「な、なんだって?」 「これで少しは反省したかしら?痴漢ばかりしているとこういう目に会うのよ。わかった?今すぐに謝るなら許してあげるわ。」 「ちょっと待て!謝るも何も私は何もやっていない。それよりも、私を小さくすることなど出来るのか?」 「もう、話をそらしてごまかそうとするんだから。私、知ってるんだからね。あんたがお尻を触ったってこと!」 「違うんだ。触ったのは、あの若い男だ。私の横にいた茶パツロンゲのピアス男だ。」 「そんな男知らないわよ。この期に及んでまだそんなこと言うのね。いいわよ。踏み潰しちゃうから。」 数十メートル先の黒い塔のうち、左側の塔がスッと持ちあがると、ものすごい勢いで私に迫る。なんという速さだ。私は逃げることさえ出来ずにただ呆然と眺めていることしか出来なかった。 さっきも言ったが、黒い塔は巨大な彼女の右足だ。それが私の頭上を覆う。靴底だけでも幅が7,8メートルくらいはありそうだ。周囲が暗くなり、靴底の凸凹が迫る。もうだめだ!そう思った時、私は恐怖のあまり腰が抜け、恥ずかしながら失禁してしまった。 しかし、彼女の靴底は私を踏み潰さずに、再び上昇していった。そして元の位置へと戻って行った。私は助かったのだ! 「どう?びっくりした?」 彼女が巨大な顔を近づける。 「少しは反省したでしょ。これに懲りてもう、痴漢はしないことね。」 彼女が私に向かって銃を向ける。殺す気か!? 「頼む!聞いてくれ!絶対に私じゃないんだ!」 「ふーん。ここまで来て強情張るの?せっかく助けてあげようかと思ったけど、もう知らない!一生そのままの大きさでいなさい!」 彼女はくるりと背を向けると、ものすごい速さで去っていった。 「助かった…。」 彼女が立ち去って、正直私はほっとした。あの巨大な靴底で踏まれたらただでは済まないだろう。 私は落ち着いて周りを見渡す。だだっ広いコンクリートの平原と思っていたのは、実は駅のホームだっだ。幅だけでも数百メートル、長さはそれこそ地平線のかなたまでありそうだ。 その広いホームに巨大な塔が何十本も立っている。それらはみんな人間の脚だった。立ち止まっているのもあれば、音を立てて移動していくのもある。いずれにしろ、それらは私にとって脅威となるのは間違いない。気をつけなくてはならない。家族のためにも、こんなところで惨めな死に方をするわけにはいかないのだから。 さて、これからどうするか?これが最大の問題だ。ぐずぐずしていると会社に遅刻してしまう。とはいえ、この体の大きさをなんとか元に戻さなくては会社に行っても仕事ができない。とりあえずは、まず、さっきの女を探すことだ。私を小さくしたようだが、一体、彼女はどうやって人間を小さくしたのか?それが分からなければ元の大きさに戻ることは不可能だろう。それに、このまま痴漢と誤解されたままと言うのも困る。彼女の誤解を解いてから、元の大きさに戻してもらいたいものだ。 とりあえず私は、彼女が立ち去った方向へ歩き出した。あまりにも広すぎる駅のホーム。周囲の大きさから想定すると、今の私は百分の一くらいの大きさだろうか?だとすると、階段までの30メートルも私にとっては3キロの道のりになる。何てこった。 その時、私はふと殺気を感じた。あわてて前に走り、後を振り返る。その直後、私の立っていた場所に、巨大な女子高生のローファーが踏みしめられた。私との間は1メートルもない。つまり実際のサイズでは1センチ足らず。まさに危機一髪だ。あと一瞬遅かったら、あの靴の下敷きになっていただろう。 ほっとしたのもつかの間。一息ついた私を、さっきの巨大なローファーが蹴り飛ばした。十数メートルは蹴り飛ばされただろうか。幸い頭は打たなかったようなので、なんとか命はとりとめたようだ。しかし、体中がガンガン痛い。間違いなく全身複雑骨折だろう。私はあまりの痛みにもがき苦しんだ。 そんな私のことなど知らないさっきの女子高生は、振り返りもせずにそのまま歩き去って行った。 少しでも体を動かすだけで、全身に激痛が走る。このまましばらく横になって体力を回復したいのだが、ここは駅のホームのど真ん中。次々に巨大な靴が私の周りに振り下ろされる。こんなところにいては踏み潰されるのも時間の問題だ。 こんなところでのたれ死ぬわけにはいかない。その気持ちが私の傷ついた体を動かした。とにかく、まずは人通りの少ないところへ行かなくてはならない。私は這いずりながら、痛む体を動かした。 しかし、それさえもすぐに不可能になった。必死の思いで伸ばした私の腕に、ハイヒールの踵が直撃したのである。この時最初、私は何が起きたのかわからなかった。すぐ目の前に直径1メートルもないような白い柱が現れた。その白い柱は、伸ばした私の腕を下敷きにしていた。 次の瞬間、私の腕に激痛が走った。激痛と言うより、腕の感覚がなくなったと言うほうが正しいかも知れない。 すぐにその災いをもたらした白い柱は、私の目の前で上昇し始めた。それとともに下敷きになっていた私の腕も柱の底にくっついたまま上がり始めた。 どこへ行く、私の腕よ! そう叫ぼうとした時、腕が柱の底からはがれ落ちた。私の腕だったものは、血まみれで紙のように薄くなり、見るも無残な姿に変わっていた。 災いをもたらした白い柱が、ハイヒールの踵だと気づいたのは、この時だった。白いハイヒールの持ち主は、若いOL風の女性。彼女は何事もなかったかのように、振り返ることすらせず、コツコツと足音を響かせながら去って行った。 これで、私の行動は事実上不可能になった。腕がなくては傷ついた体を立ちあがらせることもできない。今までのように這って歩くのは、なおさら不可能だ。 私は途方にくれた。こうなった以上は誰かが気づいてくれて、私のことを拾い上げてくれるしか助かる道はない。私は必死で祈った。誰でも良いから拾い上げてくださいと。 だが、そんなささやかな願いさえもかなわなかった。無情にも巨大な靴の群れは、次々に私の周りの地面を踏みしめて進んでいく。誰一人として足元に横たわったいる小さな私に注意を払う者はいなかった。私は徐々に絶望的な気持ちになってきた。 私はここで死ぬのだろうか?私が死んだら、残された家族はどうなるのだろうか?娘も息子もこれから高校、大学とお金がかかる年齢だ。大事な家族のためにも死ぬわけにはいかない。 会社もどうなるのだ?私ほどの優秀な課長はいないだろう。部下を必要以上に叱りつけたり、出世目当てで上司に必要以上に媚を売ったりもしない。こんな人材を失ったら、我が社はどうなるのか?かわいい部下のためにも死ぬわけにはいかない。 私は必死で動こうとした。だが、体が言うことをきかない。顔を上げるのがやっとだった。顔を上げると、ギャル系の厚底ブーツの女がやってくる。彼女はまっすぐにこちらに迫ってくる。 頼む!気がついてくれ!俺はここにいる。助けてくれ! 私は必死で祈った。だが、むなしくも祈りは彼女に通じなかった。彼女はまっすぐ前を向いたまま、一歩一歩、コツコツと音を響かせて近づいてくる。まるでその音は、死へのカウントダウンのようだ。 そして、ついに運命の時が来た。運悪く、彼女の歩幅からいくとちょうど直撃コースだ。彼女のブーツの靴底が私に迫る。私は、ついに観念した。信じられないほどの重さを感じた直後、私の意識はなくなった。 こうして、私の人生は予想もしない形であっけなく幕を閉じたのだった。 私にとどめを刺したギャル系厚底ブーツ女は、何かを踏んだことに気づいて足元を見つめた。しかし、潰れた塊がまさか人間だったものとは思うはずもない。彼女は別に気にする風でもなくそのまま歩き去って行った。 その後も私の体だったものは次々に踏まれまくった。その結果、私の残骸は踏み散らされ、靴底ですり潰されて跡形もなくなってしまった。 私が亡くなった後、家族や会社がどうなったかは、私は知らない。 |