踏み絵

作:大木奈子

「えー、マジ!?バイキンの奴、あたしより彩美のほうが良いって言ったの?」
 紺野絵梨佳の驚いた声が聞こえる。
「ああ。でもそんなこと、どうでもいいじゃん。俺達は全員、絵梨佳ちゃんが一番かわいいと思っているし。」
 絵梨佳と話し込んでいたガラの悪い男が答える。彼こそがクラスを仕切っているボスだ。
「いやよ。たとえ一人だろうとあたしより良いと言われる女がうちのクラスにいることが許せない。なんとかしてよ。」
「わかった。絵梨佳ちゃんのために、俺が一肌脱いで、バイキンの奴を懲らしめてやるぜ。」
 クラスのボスは答えた。

 ちなみに、『バイキン』とは絵梨佳と同じクラスの男の子。性格はまじめで温厚なのだが、どう言うわけかクラスのみんなから嫌われ、『バイキン』と言うあだ名をつけられてしまっている。
 そして、彩美も同じクラスメート。彼女もおとなしい性格で、友達は少ない。女子であるために暴力的ないじめが行なわれないだけで、クラスの中での立場は『バイキン』と近いものがある。似たもの同士なので、『バイキン』が彩美のことを絵梨佳よりも良いと思うのも無理はない。

「そうそう。バイキンの奴、この前の美術の自画像、クラスの優秀作品に選ばれたそうじゃない。ナマイキなのよね。なんとかなんないの?」
「絵梨佳ちゃんのためなら、なんだってするぜ。それだけ俺はお前が好きだから!」
 クラスのボスは、歯が浮くようなセリフを言う。
「やだあ、お世辞ばっかり。じゃあ、お願いね。」
「任せておけって。」
 去りゆくクラスのボスの背中を見つめて、絵梨佳はかわいい笑顔を浮かべた。


 その日の休み時間。彩美は男子生徒達から呼び出された。
「おい、バイキンがお前に用だって。愛の告白らしいぜ。」
「え?」
 半信半疑の彩美だが、彼女は言われるままについて来た。彼女が連れてこられたのは、教室の後ろのドアの前だ。
「連れてきたぜ!」
 その男子生徒が入り口のドアを開ける。ドアを開けると、入ってすぐの床の上に1枚の画用紙が落ちていた。画用紙には人間の顔のようなものが描かれている。
「おい、彩美。」
 クラスの男子のボスが声をかける。
「こいつがお前のこと好きだってこと、知ってるよな。」
 彼は、バイキンを指差しながら言う。ちなみにバイキンは男子生徒に囲まれて座り、床に置いてある画用紙を凝視している。
 そんな彼の様子を見て、彩美は黙ってうなずいた。
「ずばり聞くけど、彩美、お前はこいつのこと、どう思うんだ?好きなのか?嫌いなのか?」
 ボスの男子生徒が尋ねる。本人を目の前にして返事もできず、彩美はうつむいた。
「ふん。返事がないなら、まあいい。お前が、クラス一の美少女の絵梨佳ちゃんを差し置いて、『好き』と言われるほどの女なのか、確かめてやる。」
 彼の合図で、彩美を取り囲んでいた男子生徒が、彼女を前に押しやる。彩美は押されて画用紙の目の前まで来た。
「お前の足元にあるのは、バイキンからの、愛の告白の自画像だ。バイキンの告白を断わるのなら、その絵を踏んでみろ!好きでもない奴の絵なら踏んでも平気だろ。もしも、この絵を踏めないのなら、お前がバイキンに気がある証拠。お互いにデキてるってことになるぜ。」
 彩美は迷った。ここで絵を拾い上げれば、彼と一緒に二人まとめていじめられるだろう。だが、彼が放課後遅くまで残って絵を描いて優秀作品に選ばれたのを知っている彩美は、いくら嫌われ者のバイキンとはいえ、苦労して描いた絵を踏む気にはなれなかった。

「ひどい、これはいじめじゃない!」
 声をあげたのは、横で見ていた絵梨佳だ。
「いくら自分がモテないからって、こんな強引な告白が許されると思うの?」
 絵梨佳の非難はバイキンのほうへ向いている。
「男なら堂々と告白したらいいでしょ。それができないからって、踏み絵みたいな事をして。これじゃあ、断わりたくても断われないじゃない。そっちがそうなら、彩美、踏んじゃいなよ!あんた、バイキンのこと嫌いなんでしょ!」
 絵梨佳のこの一言で、周りで見ていた女子生徒が勢いづく。
「そうよ、そうよ!こんな告白、最低!踏みなよ!」
「こんなことされたら、あたしなら迷わず踏んじゃう。」
 彼女達は一斉に彩美に加担する。彼女が普段女子の間で浮いている存在とは言え、男子に対してはちゃんと結束するのだ。それだけバイキンが嫌われていることの裏返しでもある。
 沸き起こる「踏め」コールに、さすがに彩美も後に引けなくなった。もはや、『好きではないけど人道的見地から踏めない』、というのは通用しない。意を決して彼女は彼の自画像を踏むことにした。
 彩美は上履きを脱いで、足を自画像の上に持ち上げる。その時、絵梨佳が口を開いた。
「やだー!直接踏むなんて汚い!バイキンがうつるよ。」
 この一言に彩美は動きを止めた。
「本当だ。よっぽどバイキンのこと好きじゃないと、裸足でなんて踏めないよね。」
「そうそう。上履きのままでもあいつの絵を踏んだら、上履き洗わないと汚くなっちゃうよ。あはは。」
「でも、ほんと。もしかして彩美ってバイキン好きなのかな?さっきから迷ってばっかじゃん。もし2人がデキているんなら、あたしらも彩美との関係見直さないと。」
 周りの女子生徒が口々に勝手なことを言う。ここまで言われては、彩美は自分の身を守るためには上履きのまま踏むしかない。彩美は上履きを履きなおすと、ゆっくりとバイキンの自画像に足を乗せた。
「あっ。」
 彼のかすかな声が聞こえた。彼は、『踏まないで』と懇願するような目つきで彩美を見つめる。しかし、彩美は彼から目をそらすと、自画像を踏み越えていった。自画像には彼女の靴跡がしっかりと残された。彼は正視に耐えられず自画像から目をそらした。

「彩美ってひどいね。」
 絵梨佳がバイキンに向かって言う。ここで、『私なら踏んだりはしない。』と言えば、絵梨佳の作戦完了。絵梨佳は彩美よりも優しいというイメージができあがる。

 だが、ここで予想外のことが起こった。周りで見ていた女子生徒の一人が、
「あたしも踏みたい!」
 と言い出したのだ。彼女はそのままバイキンの絵の上に乗り、足踏みを始めた。彩美の靴跡一つだけだった自画像に、彼女の上履きの跡がいくつも刻まれた。
「あたしにも踏ませて!」
 他の女子生徒もこれに加担する。
「ねえ、どうせならクラスのみんなに踏むかどうか聞いてみてら?踏んだらあたしたちの仲間で、踏まなかったらバイキンとデキているということで。」
「あ、それ面白そう。やろうよ。あたし、みんな呼んでくるね。」
 こうして、彼の自画像は次々に女子生徒の上履きに踏みにじられ、靴跡で汚され、元の絵がわからないほどになった。中には踏むのにためらう子もいたが、みんなにさんざん踏まれて汚くなった絵に、自分一人の足跡を加えるくらい平気だろうと判断して踏んづけて行った。
 こうして彼の自画像は上履きの足跡だらけの、ただの汚れた画用紙となった。

「気を落とすなよ。それだけお前が女子から嫌われているってことだぜ。」
 この『踏み絵』を仕組んだクラスのボスが、事も無げにバイキンに向かって言う。苦労して描いて優秀作品にまで選ばれた自画像を踏みにじられ、彼は、はらわたが煮えくりかえる思いだろう。だが、ここで反撃しても彼には勝ち目は無い。彼は自分の立場を理解していたので、あえて何もせずに、自分の絵が汚されるのを黙って見ているだけだった。
 やがてあきらめたのか、彼は一人寂しく廊下へと出ていった。

「ねえ、どこ行くの?」
 背中から廊下を歩く彼に声をかけたのは絵梨佳だ。
「職員室…。」
 バイキンはポツリと答える。その目には涙が浮かんでいた。
「だめよ。先生に告げ口しちゃ。」
 絵梨佳は彼の前に回り道をふさぐ。
「あたしは推薦でいい高校に行くんだから、内申書に変な事書かれると困るの。うちのクラスでいじめがあったのが先生に知れたら、内申書に悪い影響与えそうでしょ。だから言わないでよ。」
「先生に言われたくなければ、止めてくれたっていいじゃないか!」
 突然彼は廊下を駆け出した。
「待って!先生に言ったら、もっといじめがひどくなるよ。」
 絵梨佳が彼の後を追う。
「これ以上ひどいいじめなんかあるものか!」
 彼は泣きながら、職員室へ向かって廊下を走る。
「もう、わからずやなんだから。仕方ない。あたしの将来のためだ。」
 絵梨佳は呪文を唱え、彼を小さくした。

 絵梨佳は小さくした彼を拾い上げると脅かすように言った。
「あんたが悪いのよ。あたしより彩美なんかの方が良いって言うから。」
 彼は何が起きたのかわからずに、ただ絵梨佳の手の中で震えているだけだった。
「そんなに彩美がいいんなら、ずっと彩美と一緒にいさせてあげるわ。」
 絵梨佳は昇降口の下駄箱へ向かった。

 絵梨佳は彩美の運動靴を取り出すと、再び呪文を唱えて彼を靴底に貼りつけた。
「今、あなたがどうなっているか教えてあげるね。あなたは今、小さくされて彩美の靴底の一部となったわけ。先生に告げ口しようとした罰よ。大好きな彩美と死ぬまで一緒にいなさい。」
「僕、死んじゃうの?いやだよ!」
 突然バイキンは謝りだした。
「もう、先生には言わないよ。だから、助けて。」
 身の危険を感じた彼は、必死で命乞いをする。
「もう遅いわよ。それに、あんた、あたしより彩美のほうが良いって言ったんだって?大好きな彩美に踏まれるなら本望じゃないの。」
「違うよ。みんなに言わされたんだ。『クラスの中で好きな女は誰だ?』って聞かれたから、僕みたいないじめられっ子が紺野さんの名前を出すのは失礼だと思って、彩美ちゃんの名前を出したんだよ。そしたら、いつのまにか話が広がって…。」
「ふーん。どっちみちあたしの秘密を知った以上、助かる道はないの。あんたの自画像を彩美に踏ませるように男子に仕掛けさせたのはあたしだし。まさか彩美が本当に踏むとは思わなかったけどね。どうせ踏めないだろうから、彩美とバイキンはデキているって、からかってあげようと思ったんだけど。彩美って本当に残酷ね。」
 予想外の絵梨佳の言葉に、もはや彼は返す言葉も無かった。
「でもね、彩美が本当にあなたの事を思ってくれて、気がついてくれれば助けてもらえるかもね。うふふ。じゃあね。」
 絵梨佳は彩美の運動靴を下駄箱に戻すと、立ち去った。巨大な彩美の靴の重さに、彼は身動きもせずに耐えるしかなかった。

 孤独な時間が過ぎて行く。このまま彩美に靴を履かれたら、間違いなく彼は踏み潰されるだろう。彼は脱出を試みた。だが、彼にとって彩美の靴は押し潰されるほど重くはないが、持ち上げて脱出できるほど軽くはない。
 自分一人では何もできないと悟った彼は、助けを待った。誰かの足音が聞こえるたびに、誰か助けに来てくれたのではないかという期待と、彩美が靴を履きに来たのではないかという不安が交錯した。だが、誰も彼を助けには来なかった。

 教室では何事もなかったかのように授業が続けられていた。いじめられっ子の彼がトイレに閉じ込められたりして授業に出られないのはよくあることので、先生も特に彼がいないことを気には止めていなかった。

 昼休みが終わり、絵梨佳のクラスの五時間目は体育の授業だ。みんな体育着に着替えて校庭へと向かう。
 彩美はみんなと少し離れて一人で校庭へ向かっていた。
「彩美!」
 昇降口にさしかかった時、絵梨佳が声をかけた。
「何でしょうか?」
 彩美は下駄箱から運動靴を取り出しながら答える。
「何でもない。早く行かないと遅刻よ。」
「はい。」
 彩美は、靴を床に置いた。もちろん靴底には彼が貼りついたままだ。彼は必死で祈った。彩美が靴を履く前に気づいてくれることを。
 だが、何も知らない彩美はそのまま靴を履いた。とてつもない重量が彼を襲う。彼は押し潰されて気を失った。
「?」
 彩美は何か靴底に貼りついていることに気がついた。
「何かしら?」
 彩美は靴を持ち上げ、靴底を覗きこんだ。彩美が靴を持ち上げてくれたおかげで、彼は意識を回復した。彼の体はゴム状に変化していたので、彩美の体重をかけられた時は踏み潰されるが、重量がかからなくなると回復するのだ。
 3次元形状に回復した彼は、彩美と目が合った。どうなっているのかわからないが、とりあえずまだ生きている。彼は助けを求めて彩美を見つめた。だが、彼のそんな願いもむなしく、
「彩美、早く行くよ!」
 絵梨佳にせかされて、彩美は靴底に貼りついたものをろくに確認しないまま駆け出した。彼女が足を踏みしめるたびに、彼は死ぬような苦しみを味わっていた。好きだった女の子がコンクリートを踏み、土を踏み、草を踏む。彼女の歩く場所全てを、彼女の体重とともにその小さな体で体験しなければならなかった。

 校庭の集合場所に向かう途中、彩美は幾度と無く靴底に貼り付いたものの正体を気にしていた。しかし、ついにそれが彼だと気づくことは無く、
「どうせゴミがくっついているだけだよ。歩いているうちに取れちゃうよ。」
 と絵梨佳に言われ、彩美は靴底の彼のことを全く気にしなくなった。

 この日の女子の体育は長距離走だ。授業時間中はただひたすら走るだけ。走る生徒にとっては一番つらい種目と言えよう。
 だが、もっとつらいのは彩美の靴底に貼りついた彼だった。休むことなく走りつづけるということは、休む間もなく繰り返し踏み潰されることだ。たくさん走れば、固い靴底でも磨り減る。それだけの衝撃や地面との摩擦が、彼の生身の小さく柔らかい体にかかるのだ。彼の受ける衝撃は言葉では言い表せないほどだった。

 ようやく授業が終わった。繰り返し踏まれ続けた衝撃で、彼は体力を使い果たし、指一本動かす力もなかった。そのかわり、今日の彩美は少し楽に感じたはずだ。彼が地面と靴底との衝撃を吸収してくれたのだから。
 ゆっくり彩美は昇降口へと歩く。もう彼女は、授業開始前のように靴底の彼の存在を気にしてはいなかった。好きだった女の子に踏み潰され、それさえも気づいてもらえない。これ以上ない屈辱だが、彼にはこの状況から脱出する術がなかった。とにかく彼は、この苦しみをそのまま受け入れるしかなかった。

 とその時、彼の耳に聞きなれた呪文が聞こえてきた。その呪文は絵梨佳のもので、彼の頭の中に直接響いてきた。
 呪文が終わると、彼は彩美の靴底からはがれ落ちた。背中に何の束縛も感じない。自由だ!彼は自由を勝ち取ったのだ。彼は自由を与えてくれた絵梨佳に感謝した。
 振りかえると、この1時間ほど苦楽を共にしてきた彩美の靴底が去って行く。思えばあの靴底にさんざん苦しめられたのだが、それでもやっぱり好きな子の靴だ。離れてしまうのは少し寂しい。
 さらに周囲を見渡すと、絵梨佳が見えた。彼女は優しいのか冷たいのかわからない。彼女のせいでこびとにされ、彩美の靴底で苦しんだのだ。だが、今は彼女のおかげで自由の身になった。彼女の目的は何だったのだろうか?
 絵梨佳を見つめて考えこんでいた彼は、自分の身に危険が迫っていることに気づくのが遅れた。ふと気づくと、頭上に巨大な靴底が迫っていた。彩美の後ろを歩いていた女の子の靴底だ。
「うわー!」
 彼は叫んだ。このまま踏み潰されては、せっかく彩美の靴底から自由になった意味がない。彼は逃げようとした。だが、動きが鈍かった。あるいはさっきみたいにゴム状の体なので踏まれても平気だと、たかをくくっていたからかもしれない。彼は、迫り来る靴底をただ眺めていた。
 ぺちっ!
 だが残酷な事に、彼の体は元のひ弱な体に戻っていたのだ。そうなれば当然巨大な少女の重さに耐えられるはずはない。内臓をまき散らし、彼は短く不幸な生涯を終えた。

「今日は疲れたね。」
 彼を踏み潰した少女は、楽しそうに友達と会話しながら歩いていく。彼女は、自分が同級生を一人殺したことに気づくことはなかった。

 掃除の時間。いまだに姿を現さないバイキンだが、クラスの誰も心配はしていなかった。どうせいじめられたショックで学校を逃げ出したのだろう、みんなその程度にしか捕らえていなかった。
 上履きの足跡だらけになった彼の自画像も、ほうきでかき集められて他のゴミと一緒にゴミ箱へと送られた。

 放課後、彩美たちが帰る頃には、昇降口の出口付近にあった彼は、みんなに踏み散らされかすかなシミが残るのみだった。もはやそのシミに誰も注意を払うことはなかった。

 その日バイキンが家に帰らなかったため、次の日彼の家族からの問い合わせで学校内を調べられた。だが、彼の行方を見つける事はできなかった。

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