ある男の悲劇

作:大木奈子

 『死にたい。』
俺は、本気でそう思った。言っておくが俺は悲観的な人間ではない。しかし、世の中には生きているほうがつらいこともある。という事を今、身をもって体験している。

 事の発端は、ある歩道橋で始まった。この歩道橋は家から駅に向かう近道なので俺はよく利用する。ちょうど階段を上ろうとした時に、前方に制服姿の女の子がいた。高校生か中学生かは分からない。ただ、超ミニのスカートで階段を上るとどうなるかはわかるだろう。俺も目のやり場に困った。しかし、欲求には勝てずに、ついうっかり上目遣いに覗いてしまった。
 しかし、運が悪い事に、ちょうどその時彼女が振り向いた。まだ小学生と言ってもいいような幼い顔つきの女の子。おそらく中学生だろう。ただし、すごい目つきで俺をにらんでいる。
 面倒事はごめんだから、そのままひき返そうかと思ったが、それでは『俺は見てました。』と言っているようなものである。ここは堂々と正面突破あるのみ。
 俺は彼女から目をそらしてそのまま階段を上ろうとした。しかし、どういうわけか、目をそらすことができなかった。彼女の目に吸いこまれていきそうな感覚に陥った。
 俺をにらみつける彼女の口元がかすかに動いた。そして俺は意識を失った。

 意識が回復した時、俺は小人にされていた。こんなことがあるなんて信じられるかい?最初は俺も信じられなかった。だが、俺は本当に小人にされていた。
 原因はあの女に間違いないだろう。今すぐにあいつを捕まえて問い詰めてやりたいところだが、なにしろこの大きさ。厳しい現実が俺の前に立ちはだかっていた。
 前方には階段の段差にあたる、数十メートルの壁。後方にも同じく数十メートルの断崖絶壁。これらをどうにかしないと、俺はここから動く事さえ出来ない。
 そうしているうちに、女子生徒の集団がこの歩道橋に向かって歩いてきた。彼女らはこの歩道橋を使うようだ。このままでは危ない。俺はそう直感して歩道橋の隅のほうに逃げ出した。しかし、大きな彼女達の動きのほうが速かった。
 あっという間に彼女たちは俺のところへ近づいてきた。それでも、彼女たちは俺に気づいていないようだ。最初の子の靴底が俺に迫る。すごい重さが俺にのしかかる。
「うぎゃああああ!」
信じられない重圧に俺は悲鳴をあげた。だが、それも一瞬のこと。次の瞬間には俺は意識を失い、あっさりと人生を終わらせた。

 と、まあ、これで終われば俺は死にたいなどとは思わない。何度も言うように俺は前向きに生きるのが好きだ。この時は逆に、生き延びて俺の体がなぜ小さくなったのかその理由を探りたかったくらいだ。

 そして、俺の望みは運良くかなえられた。間もなく俺は体中の痛みで目覚めた。周囲の様子から、あの世ではない事は確かだ。直撃で踏まれたはずなのに、なぜ生きているのか不思議だった。
 しかし、その謎もすぐに解けた。小さくされたときに、俺の体はゴム状のものに変化していた。そのため、踏まれたときはぺしゃんこになったが、時がたつと潰れた体が回復したのだ。だが、最悪な事に、痛みの感覚はそのまま。体の回復と共に痛みも治まってきたが、それでも想像を絶する重さをくらったので、そう簡単に完全回復はしない。
 俺は痛みと戦いながら体を起こした。このままここにいても、次にいつ踏まれるか分かったものじゃない。幸い、今、歩道橋を上ってくる人はいない。今のうちに隅のほうに逃げるに限る。
 だが、歩き出した俺に、いきなり巨大な靴底が降りてきた。俺は階段を上ってくる人にだけ気をつけていたが、下りてくる人もいたのだ。今、俺はその下りてくる人の直撃を受けたのだ。俺は再び激痛を感じ、気を失った。

 再び気がついたとき、俺は歩道橋から少し離れた歩道の真ん中にいた。どうやら靴底の凸凹にくっついてここまで来てしまったらしい。そう言えば気を失いながらも何度か激痛を感じたが、あれは靴底にくっついたまま踏まれたときのものだろう。
 前方を見ると、一人のOLが歩き去っていく。恐らく彼女が俺をここまで運んだ犯人だろう。俺は痛む体を休ませながら考えた。これは幸運だったのかもしれない。
狭い階段と違ってここならば逃げる場所も十分にある。俺は痛みの引くのを待ってどこか安全な場所に逃げ出すことにした。
 ちょうどそのとき自転車のベルの音がした。音のほうを見ると、女子生徒が自転車に乗って迫ってくるところだった。自転車のタイヤは、俺の目の前まで来ている。俺は逃げ出す事さえ出来ずに、タイヤの直撃をくらった。ただ踏まれるだけでも痛いのに、勢いのついた自転車である。その衝撃は想像以上だった。そして俺はまたまた潰されて気を失った。

 次に気がついた時、俺は思った。逃げるだけではだめだ。積極的に動いて、誰かの助けを求めるしかない。
 殺気を感じて振り返ると、幼稚園児くらいの女の子とその母親らしき二人組がこちらに歩いてくる。
「おーい!」
俺は両手を振りながら声を限りに叫んだ。
「ここに人がいるんだ。俺は小さくされちゃったけど人間だ。頼むから助けてくれ!」
俺の必死の叫びが功を奏したようで、女の子のほうが気づいてくれた。前向きに良い事を願えばすんなり叶うものである。彼女はしゃがみこみ、俺のをまじまじと見つめる。
「そうだ、良い子だ、お嬢ちゃん。俺を拾い上げてくれ。」
「わー。不思議な虫!」
彼女は興味津々で俺に手を伸ばす。
「助かった。」
俺がそう思った時、母親の声がした。
「何やってるの?そんな汚い虫踏み潰しちゃいなさい!」
「はーい。」
彼女はもったいなさそうに俺を見つめると、右足を高く持ち上げた。
「ちょっと待て!」
俺は叫んだが、遅かった。叫ぶと同時に彼女の靴底が俺を襲った。幼稚園児とは言え、小人にされた俺にとっては信じられないほどの大きさだ。俺はあっさり踏み潰されて気を失った。

 やがて俺は意識を回復した。体全体が死にそうに痛い。あれだけの重さを何度もくらえばとっくに死んでいるところ。生きていることに感謝しなければならないのだ。それにしてもこの苦しみは、あと何回繰り返されるのだろうか?
 俺はとにかく精一杯出来る限りの手を尽くした。幸せは自分でつかみ取るもの。つかもうとがんばっていれば幸せは必ずやってくる。俺は大声をあげ、両手を振り、気づいてもらえるようにがんばった。
 だが、すべては徒労に終わった。まず、ほとんどの人が俺の存在に気がつきさえもしないのだ。たしかに俺も昔はいつも上を向いて歩いていたので、足元に何があるかなんて考えもしなかった。だから、他人を責めることはできないのだが、それにしても無関心な人が多すぎる。
 たまに俺の存在に気がついてくれる人もいる。だが、全員、俺のことを人間だと思ってくれなかった。何か小さな虫がうごめいているとしか思っていないようだ。何度も踏まれたため俺の体は灰色に汚れて人間には見えないのかもしれないが、それでも気づかないのはひどすぎる。
 百歩譲って俺のことをただの虫だと思うのを認めたとしよう。でも、その後の奴らの行動は何なのだ?
 さっきの小学生の女の子。俺と目が会った途端、いきなり駆け寄ってきて踏み潰しやがった。お前はいつもそうやって虫を踏みつぶしているのか?
 それから、ブーツの女子大生!俺を見るなり、「いやだ、気持ち悪い!」はないだろ。しかも、「買ったばかりのブーツ汚れちゃう。」なんて言いながら踏みにじるのはやめろ。汚れるのがいやなら踏まなきゃいいだろ。と言うか、俺は靴のまま踏むのさえいやなくらい汚いのか?

 こんな感じで俺は踏まれまくりはしたが、助けられることはなかった。さすがに前向きな俺も、少しずつ不安になってきた。このまま助からないのではないかと。
 徐々に俺は悲観主義に傾いてきた。俺は精一杯の努力をしたのだ。踏まれないように逃げながら、大声を上げて助けを求める。この大きさでは、こうすることが精一杯だ。しかし、俺の努力はすべて無駄になった。体力を使い果たした俺はすっかり無気力になっていた。
 加えて、何度も踏まれた痛みが蓄積され、俺はもう激痛のために動くことさえできなくなっていた。
 それでも容赦なく巨大な靴底は次々に俺に襲いかかる。俺はもう投げやりになっていた。だが、あきらめたとはいえ踏まれたときの痛みは軽くなるわけはない。
 いつか必ず元の大きさに戻れるならば、この苦痛にも耐えられる。だが、その保証はどこにもないのだ。いっそのことさっさと死んでこの苦しみから逃れられたらいいのにと思う。
 死にたい奴は心が弱い卑怯者だ。今まで俺はそう思っていたが、それは間違いだった。人生、つらいことが度重なり、それが改善される見込みもなく、苦しみを理解してくれる人がいない時は、死んだほうがましなのではないだろうか?
 だが、俺は死ぬこともできない。どんなに強く踏まれても、痛みは感じるが、ゴム状の体なので元に戻ってしまうのだ。俺はこの先永遠に続く苦しみの中で生き続けることになる。
 誰か、俺に生きる希望を与えてくれないか。

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