そろそろ太陽が傾き薄暗くなりかけた夕方、彼女は軽乗用車を運転していた。 見通しの良い直線道路で、片側は水田、もう一方は背の高い草が生い茂っている空き地が続いている。 道路の片側は、縁石に隔てられて歩道が存在している。 もともとそれほど交通量の多い道路ではなく、はるか前方に一台トラックが見えるだけで、彼女の車の周囲は他の車は存在していなかった。 MDを聞きながら運転している彼女の意識は、見通しの良い直線道路を運転していることと相俟ってやや散漫気味になっている。 速度も田舎道では当たり前とはいえ、法定速度が40Km/hのところを、実際は60Km/h以上で走っていた。 それでもなんら危険を感じることは無い。 彼女にとって、通り慣れた道だった。 「そのもの」は唐突に彼女の車の前を横切ろうとした。 彼女は、何か白いものが道路の左側から飛び出してくるのを視認し、反射的にブレーキを踏もうとした。 しかし、彼女の履いている厚底のブーツが引っかかり、ブレーキを咄嗟に踏めなかった。 彼女は一瞬、引っかかっている足を動かそうとしたが足は外れない。 「そのもの」は彼女の車に気付き、道路の真中で停止した。 というよりも立ちすくんだ。 「猫?!」彼女は、飛び出したものを認識しつつ、咄嗟に右にハンドルを切った。 彼女の軽自動車は反対側車線に飛び出す。 すぐに道路の端が迫ってくるのが見え、彼女は慌ててハンドルを切り返した。 軽自動車は大きくロールしながら、今度は左側へと進路を変えた。 ロールの瞬間、引っかかっていた厚底ブーツが自由になり、彼女は必死でブレーキを踏んだ。 軽自動車は、右に傾きながら、左前輪が縁石に接触し、乗り上げかけると同時に横転した。 白い猫は、背の高い草の生い茂る荒地に逃げていった・・・ 彼女は一瞬何が起こったのかわからなかった。 ハンドルと、ブレーキの操作は無意識のものだった。 つまり、彼女にとって「気付いたら横転していた」という状況だった。 横倒しになった彼女のすぐ右側がアスファルトの地面で、助手席のほうが上になっている。 幸いフロント硝子も割れていない。 エンジンもMDも掛かりっ放しだ。 彼女は我に帰り、とりあえずエンジンを切った。 大きな怪我はしていないようで、手足は自由になる。 シートベルトを外し、助手席から脱出しようとしたが、パワーウィンドが開かない。 ドアを開ければすむことだが、彼女は事故直後の興奮のためかそれに気付かず、不機嫌に再びエンジンをかけ、ウィンドを開けた。 ガソリン類などが漏れていればエンジンをかける事は「あまり好ましくない」という事実を全く考える余裕が無かった。 そして再びエンジンを切り、開いた窓から上半身を外に出した。 「大丈夫か?」 気付けば後続車が止まり、運転していた男性が彼女の軽自動車に近づいてくるところだった。 「ええ・・・」 事故を起こした直後の興奮で、紅潮した顔のまま彼女は答えた。 男性は彼女が窓から脱出するのを手伝った。 「怪我は?」 彼女は自分の体を確かめたが、擦り傷以外大した怪我はないようだった。 「どうしたの?」 「猫が飛び出してきて、ハンドルを切ったら・・・」 「なんだ、じゃあ、自爆だ」 無遠慮な表現に彼女はむっとしたが、さらに数台の車が近くに止まり、人が降りてくるのが見え、彼女の注意はそちらに向けられた。 その中の一人が、「ガソリンとかオイルとかも漏れてなさそうだし、とりあえずこの車起こそうか」 と言うと、集まった数人の男達が彼女の車を起こした。 彼等の年齢は、彼女と同じくらいの比較的若い男から、サラリーマン風の中年まで様々だ。 数人の男達に押され、彼女の軽自動車はあっけなく横転状態から脱した。 彼女はまだ事故のショックから立ち直れず、やや呆然としていたが、男達は口々に 「エンジン掛かる?」「どこか漏れてない?」「パンクは?」「自走できそうだね」 「自損?」「アーこりゃ、20万コースだね」「ところで縁石大丈夫?」 などと口々に彼女の車とその周辺を「診察?」している。 そのうち、「その厚底じゃ運転しづらいよ」「怪我なさそうだね」「一応、後で病院行ったほうがいいよ」とか彼女に話題が及んできた。 中には彼女に対する慰めの言葉もあったが、彼女は満足に答えられなかった。 「自損だし、標識とかガードレールとかも壊してないから、警察呼ばなくても大丈夫じゃない?」 「車も走れそうだし、怪我もなさそうだから、乗って帰れるよ」 と男達の一人が断定したのをきっかけに、男達は各々その場を去っていった。 彼女は男達に礼を言える程度にまでは、事故のショックから立ちなおっていた。 彼女は男達が去った後、周囲が暗くなってきた中で改めて車の側面の傷を確認した。 その傷を見て、彼女は落胆に近い悲しさと、腹立たしさを感じていた。 そのとき、彼女の背後の叢から猫の鳴き声が聞こえてきた。 明らかに先程彼女の軽自動車の前に飛び出してきた猫だった。 しかし、改めて近くで見ると毛並みが悪くやせた感じの猫で、かなりの老描のようだ。 毛も薄汚れている。 老描は甘えるような鳴き声で彼女に近づいてきた。 彼女は猫に対し無性に腹が立った。 猫の鳴き方、歩き方、擦り寄り方、毛色、姿形、存在、全てが気に入らない。 しかし、「猫に対し怒りをぶつけても仕様がない」と彼女は思い直し、猫を見下ろした。 彼女は無言のまま、猫に対する怒りを何とか堪え、足で軽く猫を払うようにして自分から遠ざけようとした。 一度遠ざけられた猫は、彼女の心理状態を全く無視するかのように再び擦り寄ってくる。 老いた猫は、人間の憐憫の心にすがって生きていくのが習慣になっていた。 しかし、この場合は猫にとって予想もしない展開になっっていった・・・ 厚かましく擦り寄ってくる描に対し、彼女の中で何かがキレた。 「うるさい!」 次の瞬間に、重い厚底ブーツを履いた右足を猫から振りほどき、蹴りを放った。 猫は悲鳴をあげて、後方に蹴り飛ばされ、荒地の叢に横たわった。 危機を感じた猫は立ち上がろうとするが、不意のダメージで力が入らないらしく立ち上がれない。 あるいは骨などに重大なダメージを受けたのかもしれなかった。 彼女はやはり無言のまま猫に近づいた。 あたりは暗くなり、時折、道路を通過する車のヘッドライトが灯り始めた・・・ 猫は弱々しい鳴き声を上げながら彼女を見詰め、怯えたように前足を足掻いて彼女から逃れようとしていたが、無駄な努力だった。 彼女は、そのような「猫の努力」に構わず近づき、もう一度蹴りを放った。 彼女は足の甲の部分で蹴ろうとしたが、厚底が地面に引っかかり、うまく蹴れなかった。 「当たり損ねの蹴り」は、猫にとっては充分な威力を持っていたが、彼女は手ごたえ(足ごたえ)を感じず全く不満足だった。 彼女は蹴るのを止め、今度は猫に対し厚底ブーツで猫を踏みつけた。 彼女は柔らかなものを踏みつける感触を感じた。 あたりは暗くなってきていたが、夜目が効く猫にははっきりと、彼女のブーツの細部まで見えた。 「はっきりと見える」ということが余計に猫を怯えを助長した。 踏みつけは確実に猫を捕らえ、彼女に手ごたえを感じさせると共に猫の行動力を完全に奪った。 何度かの踏みつけで、猫は口から血を吐いた。 激しい衝撃により、幾つかの臓器が破裂もしくは破裂に近い状態に追い込まれていた。 骨も何本かは折れているようだ。 左後肢も途中で変な方向に曲がっている。 猫は、強力な踏みつけにより、体が幾分土に埋もれる感じで、ときおり弱々しく鳴く物体に変わり果てていた。 彼女は猫を踏みつけている間、終始無言だった。 彼女は、蹴りを放ってからの一連の動作と怒りによる興奮で、やや息が上がっている。 明るかったら、彼女の顔は紅潮して見えたに違いない。 やや冷静になった彼女は、横たわる猫をやや仔細に観察した。 彼女が見ても、猫はこのまま放って置けば短時間のうちに絶命することが確実と思われた。 横たわり弱々しく呻く猫に対し、彼女は何の感情も湧かなかった。 ただ自分の怒りが一段落付いたことだけを認識した。 彼女は一つ深呼吸をすると、横たわっている猫に背を向けた。 停止している彼女の車の横を時折車が通過していく・・ 彼女は歩道まで戻り、自分のブーツの土汚れや猫の血や毛がついていないか確かめた。 彼女はこのまま、この場を去るつもりだった。 しかし、車に乗る前に、自分の車を改めて見ると、どうしても巨大な傷が目に入る。 彼女は、車の傷の前でしばし立ち竦んだ。 彼女は再び叢に入っていった。 猫は、先程と同じ状態で横たわっている。 まだ息があり、苦しそうに彼女に顔を向けた。 「やっぱり許せない・・・」 彼女は猫に対し、初めて口を利いた。 最初の踏み付けで、猫の腹にヒールが刺さった。 あまりにも刺さるときの抵抗が少なく、彼女は踏みおろした足を上げるときに初めて猫の体にヒールが刺さったことを認識した。 ヒールを抜くときに、猫の体がやや持ち上がる。 彼女は、猫の体重が掛かって重くなったブーツを揺さぶり、ヒールを抜いた。 暗くなってきて明らかには判らないが、ヒールを抜いた部分から猫の内容物の一部がはみ出したようだった。 同じく、暗くてはっきりとは判らないが、薄汚れた白い毛が血によって変色しているようだ。 なによりも血や内容物の臭いが漂い始めたことがそれを裏付けている。 続いて、猫の頭を踏みつけた。 猫には優れた動体視力により、彼女のブーツの靴底が接近する様子がはっきりと判った。 自分の顔に接近してくる靴底のトレッドのパターンすら認識できた。 しかし、猫には彼女の足を避ける力は残っていない・・・。 猫に出来る事は、「その瞬間」まで目を見開くことだけだった。 彼女は厚い靴底を通して、何か固いものが砕ける感触を感じた。 猫はくぐもったような最期の悲鳴をあげ、一瞬体を伸ばしてそのまま硬直し、続いてぐったりとして動かなくなった。 顔もしくは頭が陥没したようだった。 彼女は憑き物が落ちたように冷静さを取り戻した。 「あんたが悪いんだからね」 彼女は一言だけ、まだかすかに痙攣している猫を見下ろして言った。 叢で、ブーツについた付着物を拭い取る・・・ 彼女は自分に戻ると、エンジンを掛けた。 そして、猫を踏んだ厚底ブーツを履いたままで運転してその場を去っていった。 わずかに彼女のブーツに付着した猫の毛だけが、猫がほんの少し前までは生きていたことを物語っていた。 【徒然話】 彼女が乗っている軽自動車については、割と新しめの車種だけど型は少し前のものを想定しました。 当然サイドエアバックなどは付いていません。(フレームは割と丈夫ですが・・) 自分的には軽自動車にパワーフィンドは全く必要がないように感じますが、付いている車種が多いようです。 そこで、今回は付いておる車種を想定しました。 当時流行った軽自動車は割と背の高いものが多く、普通に走っている分には全く支障は無いのですが、ブレーキターンやアクセルターンをしようとすると横転することがあります。(縁石など、段差のあるものが要因として絡まなくとも) 特にH社製の○○○は事例が多いみたいです。 当然今回の文章のような横転事故も全くありえない話ではないと考えます。 なお、横転速度が妙に遅く感じるのに、横転してしまうと2秒ほどは思考が止まる事が多いようです。 猫は、視力に関してすぐ得た能力を持っておると言う事実は周知のことだと思いますが、今回は老描という設定だったので、どこまでその能力が維持されているかは?が付きます。 |