作品No003

作:eiさん

初冬の朝方・・気温の低下に伴い、体に力が入らないのを彼はもどかしく感じていた。
全てが気だるい感じで、歩き回ることも羽ばたくことも億劫だった。
彼はじっと壁に止まって、気温が上がり体力が回復するのを待っていた。
彼は、上から巨大な物体が覆い被さるように近づいてきるのを察知した。
彼の複眼にはそのゆっくりと緩慢な動きが手に取るように把握できたが、体のほうに力が入らない。
普段なら、余裕を持って避けることの出来たハズだが・・・
彼はじっとしたままその巨大な物体に摘み上げられた。

男は、壁に止まっていたハエに手を伸ばした。
冬のハエは動きが緩慢である。
男が手を伸ばしてもハエは逃げようともせず、難なく摘まむことが出来た。
そして、フィルムケースに入れ、蓋をする。
フィルムケースには何匹かのハエが既に入っていた。
男は、彼を捕まえたことで、充分と判断したのだろう。
フィルムケースを持って自室に引きこもった。
そして、男は机の上にフィルムケースを置き、蓋をわずかに開けた。
一匹のハエを慎重に取り出し、脚に接着剤をつけてみる。
そして、机の上に置くが、ハエはゆっくりと歩き出した。
彼等の突起の多く、油っぽい脚には接着剤はうまく作用しなかったようだ。
男は明らかに失望した様子で、ハエをフィルムケースに戻した。
次に両面テープの断片に、同じくハエを取り出して置いて見る。
接着剤よりは、ハエは幾分歩きにくそうだったが、固定できない点は変わらない。
男は試行錯誤した。
しばらくして、男は満足できる結果を得ることが出来たようだった。
その日、男は鞄にフィルムケースを入れて家を出た。
途中のコンビニでお握りを購入。
男は、大学の構内に入っていった。
丁度授業が始まってすぐの時間帯のため、人気はまばらであった。
男は、自分の受けるべき授業が行なわれている教室に向かわずに、視聴覚専門の教室に向かった。
特殊な機材が設置してある、いわゆる「特殊教室」で、生徒達は教室の前に設置された下駄箱の前で靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。
靴と一緒に付着した泥や土ぼこりその他が機器に悪影響をあたえるという、もっともな理由からだ。
下駄箱は、男子学生の物も混じっているが、多くは女子学生の靴で埋まっていた。
スニーカー、ブーツそしてパンプスやローファーなど雑多な種類の靴が混じっている。
この時期はわりとブーツが多く、筒の高さがあるため横に寝かせ、あるいは筒を横に折って収められたブーツは下駄箱の中で、多くのスペースを占有していた。
男は、あたりに人が居ない事を確認すると、迷わずその中の一足を手にした。
男が手にしたのは、流行のロングブーツであった。
そして、教室の前の通路のすぐ脇にある男子便所に駆け込み、個室に入った。
そのブーツは前から目をつけていたもので、履いている女子学生も概ね彼の好みに合致していた。
あるいは、履いている女子学生が男の好みに合致していたからそのブーツに目をつけたのか・・・男自身も明快に答えられない。
とにかく今、そのブーツは男子トイレの個室に潜む男の手中にある。
男は、このような行為を行なう自分に嫌悪感を感じながらも、手にしたブーツの魅力には抗し得なかった。
男はブーツの仔細に渡って観察し、目に焼き付けた。
ブーツの皮の履き皺、土踏まずの部分に記された24.5cmのサイズ表記、ソールのパターンや磨り減り、その他細かな傷など、手に取ってみなければ判らない特徴・・・遠目に見ているだけでは決して判らないものを確認する。
そして、皮などの素材の感触や、ブーツ自体の形のよさを手に憶えこませるように撫で回した。
サイドファスナを下げ、内部を見る。
手を入れて湿り具合を確認し、臭いも嗅いだ。
そして、鞄の中からフィルムケースを取り出した。
中には数匹のハエが納まっていたが、無造作に鞄の中に入れて歩き回ったため、フィルムケースの中で振り合わされたようで、中には1~2本脚の取れたハエもいた。
男はコンビニで購入したおにぎりを鞄から取り出し、そのおにぎりの米粒を指先で潰し、糊状にする。
続いて男はもう一方の手の指先だけで器用にフィルムケースの蓋を半分開ける。
フィルムケースの半開きの蓋の隙間から閉じた便座の蓋の上にハエを移した。
数匹のハエが一度に便座の蓋の上にこぼれた。
相変わらず元気の無いハエ達はじっとしていた。
男はその中から脚の取れなどの欠損のないハエを一匹選んで摘み上げ、ハエの脚に糊状の米をくっつけ、ブーツの手を右足に挿入した。
そして慎重に親指の付け根あたりにハエごと固定する。
ハエが充分固定されていることを確認すると、わずかに見えている米の白い部分におにぎりの海苔を極めて小さく千切ってくっ付け、白い米の部分を隠した。
一種のカモフラージュである。
男はこのような罪悪感を伴う行為のために細心の注意を払う自分に気付き、苦笑した。
男は苦笑しながらもすぐに意識を切り替え、固定されたハエのこれからの運命を考えるとより精神的に高ぶっていった。
いつしかブーツを股間に押し付ける・・・・
数分が経った・・・
束の間の行為に没頭した彼は我に帰った。
相変わらず人の気配は無いが、男は少し焦り始めていた。
まだ、授業が終わるには時間はたっぷりとあるはずなのだが、一刻も早く下駄箱に戻さないと安心できなかった。
不安は、男の小心によるものである。
女子学生のブーツを汚した液をトイレットペーパーで拭き取る。
液自体はよくケアされた皮の表面に弾かれて問題なく除去できたのだが、トイレットペーパーの白いボロボロした紙片が付着し、彼を焦らせた。
しかし、男は何とか心を落ち着かせて丹念に白い紙滓を取り除いた。
男は思い出したように仕込んだハエを確認した。
ハエはしっかりと固定され、「男の行為」の間も剥がれることは無かった。
男は慎重に外を伺いながら個室を出て、トイレから廊下、そして下駄箱へ移動し、ブーツを元に戻した。

彼はフィルムケースからだだっ広い便座の蓋の上に乱暴に移された。
これまでの移動により歩くたびの衝撃や、揺れにより一緒にいた仲間のうちの何匹かは足が取れるなどしている。
その点、幸運にも彼は五体?満足であった。
フィルムケースから、だだっ広いつるつるして白い板の上に移された彼等は、いずれも死んではいなかったが、かといって活発に動き回ることも出来なかった。
気温が低いことが彼等の行動力を奪っていた。
彼は巨大な指先で摘み上げられ、脚に白い粘着性の物体をつけられ(というよりも白い糊に彼がくっ付けられた)、薄暗いブーツの中に固定された。
弱って動けない彼は男のなすがままであった。
しばらくして、固定されていたブーツごと持ち上がる感覚があり、激しく上下左右に揺れ、数分後、男の吐息と共に揺れが収まった。
そして、もう一回どこかへ移動するような揺れが生じ、それも収まると静まり返った。
彼が固定された空間は、ほのかに温かみがあり(女子学生の体温の残りと、皮ごしに伝わる男の手からの体温の伝達によるものか?)、人間にはそれほど強く感じないかもしれないが、彼にとっては強烈かつ好ましい臭気があった。
粘着物さえなければ、ブーツの中は外よりも暖かく、彼の好きな臭気も存在する「安住の地」だった。
静置されて、しばらくすると彼は次第に体力を回復してきた。
同時に、脚に絡まりついた粘着性の物体が気になり始め、羽ばたいて粘着物の呪縛から逃れようとした。
そのとき、大きなチャイムの音が鳴り、ドアが開く音がして、多数の人間達の声が聞こえてきた。
彼は警戒して、じっとしていた。
彼は、話し声が近づいてきたため警戒してじっとしていたが、それは遠ざかるどころかさらに大勢の声が近づいてくるのを感じた。
続いて、彼のいるブーツが持ち上げれる感覚した後、今度は下へ下がって、着地した衝撃が伝わった。
その衝撃も彼を粘着物から開放するには至らなかった。
続いて、上からの光が差し込んだと思ったら、周りを覆っていた壁の一部が上から裂け始めた。
そして、膝までのソックスを履いた巨大な足が上から降ってくるのを彼の複眼が確認した。
飛翔系の昆虫である彼にとって、足が降ってくる速度は緩慢といえたが、その巨大さには非常に大きな危険を感じた。
彼は必死で羽ばたいてこの場を逃れようとしたが、空しい努力だった。
女子学生の足が上から降ってきて彼を踏み潰すまでの時間が、彼にとってはスローモーションのように無限とも思えるほど長く感じた・・・
彼の危機感とは関係なく、彼の優れた臭覚が感じることの出来る好ましい臭いが近づいてくる。
続いて、女子学生の足が彼に接触した瞬間に感じる心地よい湿り気を一瞬感じた。
そして圧倒的な力で、彼に対し圧力が掛かり、彼の外骨格が軋んだと思うと、耐え切れずに崩壊していく感覚を感じた。
・・・彼の意識は永久に途絶えた。
彼にとってその瞬間は長く感じたが、実際にはほんの一瞬の出来事だった・・・
彼の存在を示す最後のサインは、ソックスを履いた足で轢き潰されるときに生じた「彼の外骨格が崩壊するわずかな感触」だったが、それすら彼女の気に留まらなかった。
彼女は彼や彼の羽音に気付く気配すらなく、友達と会話をしながら、無造作に足をブーツに入れて彼を踏みしめた。
彼女はそのまま友人達と会話を続けながら歩いていく。
彼女が一歩踏み出すたびに体重と擦りの力が掛かり、彼の体は崩れ、元の形からかけ離れていった。

授業が終わるチャイムが鳴り、教室内が学生達の声で騒がしくなった。
居室のドアが開き、真っ先に出てきたのは小数の男子学生と若干名の女子学生で、要領良くスリッパを自分の靴に履き替え、その場を去っていった。
男がハエを仕込んだブーツの持ち主はまだ教室から出てきていない。
続いて、大部分の女子学生達が、仲のいいもの同士しゃべりながら次々と教室を出てくる。
男は、教室から大勢の女子学生達が出てくるのを遠目で見ると、その教室に向かって歩いていき、何気なく通り過ぎるふりをして、目当ての女子学生を観察しようとした。
女子学生達の流れは、教室前の下駄箱で靴を履き替えるために滞るが、男はそれを掻き分けるように教室前を通過しようとする。
混雑の中で、男はブーツの持ち主の女子学生が出てきたことを確認した。
無論、男はあからさまに彼女を見ることはしなかったが、意識を彼女の動作に集中していた。
彼女が友達と話しながら、自分のブーツを手にする・・・
続いてブーツを床に置き、サイドファスナーを下げた。
そして、彼女は会話をしながらブーツの中をろくに確認せずに足を入れ、サイドファスナーを上げるのを視認した。
そのとき男は、仕込んだハエの確実な死を思った。
男は教室の前を通り過ぎた・・・

その日の昼、男は学食で、視聴覚室前ですれ違った女子学生達を見かけた。
というより、男はわざと女子学生達の近くのテーブルに座ったと言ったほうが正確だ。
無論その女子学生達には、男がハエを仕込んだブーツの持ち主も含まれている。
男の目線は自然と目当ての女子学生の足元に注がれた。
彼女は食事、そして食後の友人達とのおしゃべりの間、ブーツを履いた足を組んだり、ヒールを軸に爪先を上げたりと、無意識のうちに様々に足を動かした。
その一つ一つの動作が男には刺激的だった。
男は殆ど昼食の味を感じることを忘れて、彼女の足の動きに見入った。
そのブーツの中で「彼」の命が奪われ、残骸が今も踏みしめられているにも関わらず、彼女は友達と明るく快活に食後の談笑を続けていた。

1週間後、男は同じ授業の時間にトイレの個室で女子学生のブーツの中を確かめたが、ハエの痕跡は全く発見できなかった。
男は仕込んだハエの最期のことを考えながら、彼女のブーツを液体で汚した。


【注釈】
人間の網膜に映る外界の映像は上下が逆になりますが、脳の中でうまく処理されるので我々は普段見ているような映像を認識することが出来ます。
しかし、ハエなどの昆虫のように複眼だったらどうなのか?
これが今回の悩みでした。
収拾がつかなくなるので人間と同じような視覚感覚を設定しましたが、あるいは電気屋のTV売り場のように沢山の像が昆虫の脳に認識されているかもしれません。
案外、昆虫は天敵が多く、自分に向かって動いてくるものに敏感なので、無理に脳の中で一つの画像に集約しないで、沢山並んだ映像の中から変化するものと変化しないものを電気的に脳に認識させて、危険が迫ってくる方向を瞬時に察知するのかもしれません。(0,1で判断するやり方で、コンピューターと同じでかなり情報の処理能力が早くなると考えます。頭の周りのかなりの面積を複眼が覆っている種が多いので有利な方法なのでは?・・トンボなどはほぼ全周ですし)
複眼1個1個が迫ってくる女性の足を認識すると、複眼1個1個の付いている位置が微妙に違うので、少しずつ角度の違う見え方で沢山の巨大な足が迫ってくるように見えるのだろう(すごい!)などとも想像しました。
しかし、そのまま複眼1個1個で見た情報を処理するよりも、人間の右眼と左眼で見た映像のように脳の中でまとめられて一つの映像として認識される方が距離感、対象物(天敵や餌)の移動速度などの情報も得られ、上記のように複眼1つ1つの情報を生データのまま使用する方法(危険物のやってくる方法を察知する)を処理するのと昆虫にとってどちらが有利なのかは悩ましいところです。
意外と、地面を這いずる虫系よりも、飛ぶ虫系のように移動速度が速い種のほうが目が大きいことから、距離や速度を認識しやすいよう(つまり沢山の画像を1つの映像として処理する方法)に出来ているのかもしれません。
あるいは、昆虫の種によって認識のされ方が違うのかもしれませんが・・・
この点は未だに纏まった研究報告がなされていないらしく(このような昆虫の脳の中を覗くのはなかなか難しいと思います)、結局想像の域の話を出ないです。
ちなみにこの文章では、一つの映像として捉える説を採っています。

あと、色覚については蜂などの実験の報告があるので、ある程度認識されるものとして、特に意識をせずに書きました。
なお、嗅覚については実際のハエのとおり敏感に設定して文章を書いております。

余談ですが、蛸については人間と同じ仕組みの眼を持っているので、いつか題材にしたいと思っております。
しかし、ブーツでのcrushではなくて、長靴でのcrushになるでしょうね(笑)

戻る